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第3話
一月も経とうかという頃に、一輝は遺書を書いた。
殆どは秋野に対する謝罪文だ。
コンコンと部屋の扉をノックする音を無視して、書いた遺書に封をする。
「一輝、話がある。出てきなさい」
今は会長を務める父親の命令口調も無視した。
「一輝、お前は黒岩秋野君と契約する事になった」
扉の向こうで、バカな話が聴こえる。
「罪悪感を覚えるのなら、せめて誠心誠意番の務めを果たせ」
「そんな事は出来ません」
「出てきて話しなさい」
苦痛のまま、扉を開ける。
そして、改めて同じ言葉を口にした。
「そんな事は、出来ません」
「では、どうするつもりだ? 中絶させ、ヒートの相手もせず、自分の番を心神喪失に追い込むつもりか? バカも休み休み言え。いいか、これはαの最低限の義務だ」
「彼が了承しているのですか? 俺に会えば辛い記憶を呼び起こすでしょう。どちらが辛い事か」
「私と黒岩のご当主で決めた。お前は何の勉強をしたんだ? 番になってしまったΩにとって、お前はαでしかない。それ以上でもそれ以下でもない。まずは会いに行け。努力して夜の相手としてだけでも許されてみせろ。髭を剃れ。不潔だ」
この一月、冷水をかぶる事しかしていなかった。
「死にたいと思いなが、多少でも飯を食って寝て排泄していたのだろう、いい歳をして悲観に酔うのも大概にしろ。やるべきことから逃げるな。そんな陰鬱な顔を黒岩くんに見せるんじゃない」
ではどんな面を下げればいいのかと考えるも、その程度の反論しか思い浮かばずに、一輝は項垂れた。
「今夜、ここに」
「わかりました……」
渡されたメモにはホテルのレストランが書かれている。
一輝はメモをデスクに置いて、床屋に向かった。
契約するつもりだという話を父親から聴いた秋野は仕方のない事だろうと思った。妊娠検査薬は見事に陽性を示し、不安に気が狂いそうになっていた。その不安は父や兄にはわならないだろう。
「秋野、嫌ならすぐに帰ってきなさい。私は秋野をホームには行かせない。でも悲しいの……だから……」
母親が了承したのは苦渋の事だったのが伝わってくる。
「うん……大丈夫、会ってちゃんと話してみるよ……」
土下座し続ける一輝の姿を思い返すと、悪人とは思えない。しかし、恐怖心と身体的快楽が混ざり合い、気持ちが悪くて仕方がない。
東雲の会長からは、婚姻、契約、絶縁、刑事罰、何でも受け入れるという申し入れだった。
父親に用意された男性Ωの妊娠初期用スーツは骨盤が広がっていく為に、ウェストと腰回りが伸縮性で柔らかく、ジャケットも腰が緩く作られる。秋野はまだ体型の変化は起きていないばかりか、中絶する決意も、産む決意も出来ていない、悪阻も来ていない。それなのに自覚させられる服装だ。
「着物でも良いかな……」
「そうしましょう。私もそっちのほうがお似合いだと思いますよ」
久子は桐箪笥を引き出して、縞が入った藍の合わせ着物と、藍無地に裏が鳥獣戯画の羽織のアンサンブルを用意した。帯は灰紫の角帯だ。襦袢は海老茶色でチラリと見えると遊び心を感じられる。その上にグレーのトンビコーヒーを着込む。
Ωはもう少し華やかな反物を使っことが多いが、秋野は地味な好みのをしている。
白い肌に、真黒い髪が抜き出る様に映えた。
バクバクとした、お互いの心臓の音と緊張感が伝わり合う様な気がする。
スーツ姿の一輝は、ホテルのエントランスで深々とお辞儀をする。
「東雲さん、もう、頭を下げないでください……」
何故こちらが気遣わなければならないのかという気持ちになってしまう程だ。
「お痩せになっていますね……」
「そう、かもしれませんね……お気になさらず」
会わない間に憔悴したのだろう。目の下にも酷いくまがある。自分よりも遥かに大人で、そして社会的にも認められたαの男性は、背が高く、身体つきのしっかりした当にαだ。
格式高いこのホテルによく馴染む。
「行きましょう」
差し出された手は大きく、ゴツゴツとしている様に見える。この手が自分の身体に触れ、服を剥ぎ取ったと思うと、血の気が勝手に引いてくる。ヒートでは無いから大丈夫だと頭で唱えつつも、ギュッと目を閉じてしまう。
「男性にエスコートは過剰でしたね、すみません」
目を開ければ、手を引っ込めて手で手を隠す様に情けなくごちょごちょとしている。
「そう……ですね……」
本当は父も兄も、母ですら秋野をΩとしてエスコートしてくれる。しかし、嘘をついて回避してしまった。
後ろをついて歩く事にしたが、気を抜けば歩みを止めてしまいそうだ。眼の前の広い背中は聳える山の様に圧倒的な雰囲気に息までが上がってしまいそうだ。恰幅の良いがっしりとした父や兄と違って、洒落たスマートな感じを受ける。どちらかと言うと、母に似ていると思った。顔立ちは往年の俳優の若い頃、という印象で、正直少し、いや、かなり憧れてしまう顔立ちだ。
席に座り、向かい合うと余計顔が目に入り、俯くより他無かった。あの日、顔は見ていなかったのだ。
「藍染のお着物、お似合いですね」
「ありがとう、ございます……」
飲み物が運ばれる。
グラスはシャンパングラスだが、酒造で作られたりんごジュースが注がれる。家族でここに来ると頼むものだ。少し大人になった気持ちになれる。
「すみません、先に着いて訊ねられたので、勝手に決めてしまいました。これ美味しいので……次はお好きなものを」
「いえ、これ好きなので……」
「良かった……」
「あの、お酒お飲みになってくださいね」
「いや、あまり必要とはしないので……お気遣いありがとうございます」
「あの、凄く歳下ですし、僕Ωですし……敬語も辞めてください……」
ふぅと一輝は深く息を吐く。
「いや、年齢もΩも関係はありませんが、少し、砕けさせてもらいますね……」
「敬語じゃないですか……」
「面目ない……」
オードブルはとても小さい手毬寿司の様なものと、プチプチとした魚卵、そして野菜のスライスだ。
「秋野君は、黒曜学園の高等部ですか?」
「はい。今はお休みしていますけど……」
「学業も奪ってしまったんだね……」
痛みを感じた様な顔をする。
「良いんです。元々、ヒートが来たら辞める事になっていましたから」
スープは寒い季節らしいほっこりとしたポタージュだ。
「何か、やりたい事とか、部活とか、あったのでは?」
「……ヒートがこのまま来なければ、何か見つけられるかな〜って思った事はありましたけどどうせ辞めると思って……」
「そう……か……」
何か言いたげな言葉を、一輝は飲み込んだ様に見えた。
ポワソンは白身魚のムニエル。バターが軽く、塩とレモンが効いていて、パセリも爽やかに香る。さっぱりとした味だ。隠し味に昆布の風味がする。身はふわふわとして、ほろりと崩れる。
「今日、ここへ来るの、辛かったのではありませんか? あの、身体の方も……そろそろ、体調に出る頃かと……」
探るような目は、奥にチリチリとしたものがある。
「今のところ、身体は大丈夫な様です……少し眠い様な気がする位です……」
「すみません、勝手かと思うのだけれど、暁先生に連絡したんです」
「夏海先生ですか?」
少し、心がふわりとした。
「はい。診察をお願いしたいと。そうしたら、すぐにでも来てくださるそうで、都合が良ければ往診をと」
「すみません、まだ、病院には行っていなくて……」
「今はまだ、不調が無ければお気持ちを優先してください」
「夏海先生が良いです……予定は何も無いので、いつでも大丈夫です」
「良かった。連絡しておきます」
今日何度目なのか、一輝はほっと息をつく。一つ一つに、真剣さや真面目さを感じられる。
ソルベは爽やかなミントの香りで、一口、二口。
食事の姿はお互いに身に付いて淀みがない。
「秋野くんには、少し堅苦しい食事になってしまったね……」
「家族とお祝いの時に来るので……寧ろ落ち着きます」
ヴィアンドは牛肉、霜降りの濃厚さを感じられる小さなお肉だ。
「秋野くん……もう一皿食べる……?」
胃を抑える一輝と、ケロリとして受け取り、ペロリと平らげる秋野。
「凄く、若いんだなぁ……」
「悪阻が来たら食べられないかもしれないって……お母様と久子が言うから……」
少しばかり、がっついた食欲に恥ずかしさを覚える。
「甘い物は食べるんですね……」
「うん、美味しいから仕方ない」
「確かに仕方ないです」
デセールは、小さなイチヂクタルトの上にメレンゲの板が氷に見立てられ、香り高いホワイトチョコレートがかけられている。
噛み締める様にイチヂクのぶちぶちとした食感を楽しむ。オードブルのぶちぶちに始まり、イチヂクのぶちぶちに終わる。収まりが良くて気持がいい。
「ケーキを追加しますか?」
「一輝さんは?」
「私は充分です……」
「僕も……」
「追加しましょう」
一層恥ずかしくなり、首まで赤くしながら、ワゴンの上から、ザッハトルテを選んだ。
「ここのザッハトルテは美味しいよね。アプリコットが濃厚で、チョコレートの濃厚さに負けないから」
「はい、必ず頼むんです。兄は甘過ぎるって、嫌な顔をするんですけど……」
「私は古いウィスキーを飲む時はザッハトルテがいいと思うけどなあ」
「やっぱりお酒飲まれるじゃないですか……」
「飲みたい時に飲む方が美味しくて、今日はそうではなかったというだけです」
「お酒とお菓子って、美味しいのですか?」
「医者としてはオススメしませんね……でも、オランジェットとウィスキーも合います。ハニーナッツとビール、ブルーチーズにハニーと白ワイン、焼酎に練切やおはぎ、大吟醸に水羊羹や葛饅頭、麩饅頭なんてのもありですね……」
「糖質が凄まじい事だけはわかりました……」
好き合って結ばれたわけでは無い親子程歳の離れた番との付き合いはきっと難しい、αである彼は秋野がお酒を飲むようになるまでに、他の人ときっと沢山お酒とお菓子を楽しむのだろう。そう考えると、虚しい気持になった。
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