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第4話

「夏海先生……」  ほんの数日の内に、秋野はげっそりとした。匂いで吐き、食べて吐き、飲んで吐き。そんな状態に陥った。 「お久しぶりです、黒岩さん」  臥せっている所に夏海と一輝が訪れた。この数日、一輝は仕事前に毎日様子を伺いに来ていたが、花やお菓子を久子に預けるだけで家に上がってくる事は無かった。気遣いだけが届いていた。 「私は外で待つよ……」  ほんの少し顔を見せただけだったが、身体が勝手に番の姿に安堵する感覚と、緊張する感覚が綯い交ぜになる。 「ご飯食べれていない様なので、点滴しましょうか。よくあることなので心配しなくて大丈夫ですよ」 「はい……」  点滴を繋がれて、少し落ち着いて夏海の顔を見ると、安心してしまった。 「黒岩さん、辛い想いをしましたね……」 「なんだか、東雲先生の方が辛そうな気がするんですけれど……」 「今時のαというやつですね……」 「そんなことは……」 「ありますよ。かと言ってジジババαみたいにやたら偉そうにされても、ヘラヘラされても腸が煮え繰り返りますから、まあ……何とも言い難いですけれどね……」 「ははは……はぁ……何がいけなかったのかなぁ……わからないんです……僕はΩだから、こうなってもおかしくなくて、元々そう出来ているから……」 「確かに、コントロール出来ることではありません。特に、初めてのヒートは」 「物凄く、物凄く怖くて叫んでいるのに、あの……感覚が……」 「気持ち良く、感じてしまいますよね。Ωですから」  真剣な、深刻な顔で、夏海は答えた。その顔に、秋野は胸が痛くなり、目から次々に涙が溢れ出し、悲鳴の様な嗚咽を漏らした。  蹲る秋野の背中を、静かに、小さくて柔らかい手が撫で続ける。  バラバラの感覚と感情を、やっと理解してもらえたと思った。 「もう、怖いのは嫌なのに……お腹に何の感情もわかないのに……一輝さんを見ると……触れてしまいたくなる……でも、頭ではそんな自分が気持ち悪い……自分では無いみたいで……自分が怖い……お腹の奥がキュッとする……」 「そうですね……黒岩さんには、身体の変化が全部いっぺんに来てしまって、慣れる間もなく次々に変化し続けてしまいましたから。全く別の身体になったように感じて当然です。私は初めてのヒートの時に味覚の好みが変わってしまったんですよ」 「味覚が……?」 「そうなんです、稀にあるんです。私が医学に興味を持ったきっかけです。ヒートの前後は年齢的に脳の成長が活発なんです、何がどうしたものか、ピーマンが物凄く好きになりました。それまで凄く嫌いだったんですよ」 「そんな事が……」 「更にお話には続きがあるのです。私が避妊はしながらも番を持ったのは医者になって間もなくです。私は親がβの男女なので、男性とお付き合いしたかったのに、女性αの千穂さんに出逢ったらもう何処までも付いて行くと思ってしまいました。そして、おっぱいが大好きに……」 「おっぱいですか……」 「はい。こう、女性αの場合はまぐわっていると眼の前に来たり、背中に当たるものですから……そして、結婚して、妊娠をしたら……なんと……ピーマンにだけつわりが出たんです……面白いですね……お陰様でピーマンさえ食べなければ至って普通なのです。私と黒岩さんが同じでなくても、そのくらいの規模の変化が、たった1日で起きてしまったのかなと思います……」 「夏海先生、妊娠しているんですか?」 「はい。そして、何の感情も無い……というのも少しはわかります。私は作為的に妊娠しましたが、それでもまだ、この子の意思を感じませんから。しかし、条件反射でお腹を庇ってしまったり、未来を想像すると愛情と思われる様な感覚にはなります。私の場合は、ですけどね」 「未来の……想像……ですか……?」 「パートナーと毎年一緒に出かける温泉に、一人加わるんだなぁ……とか、パートナーはお食い初めには絶対に地元野菜を使いたいって言い出すだろうなあとか、そんな想像です」 「僕は一輝さんの事をなんにも知らないんです……甘党って事位……」 「何も番との想像でなくても良いんですよ。ご家族と過ごす日々でも、聖子さんは子供に対して愛のある方の様ですからね。溺愛なさる姿は想像出来るでしょう?」 「はい……凄く子供が好きです。とても愛情深く育ててくれました。だからこそ、お母様も思い出したら辛くなるかもしれない……」 「そうですね、そういう事もあるかもしれませんね。どうしても、明るい想像が出来なければ、中絶して良いんです。認められた権利ですから。私達の良いところは、αが相手ならば、αやβの女性よりも妊娠成功率が高い事です。それって、その時が来るまで後回しに出来るということだと思っているんです……」 「そう……ですね……」 「それに、あなたが怖い、憎たらしい、今の気持ちをそのまま言ってしまえば良いんですよ。相手は、良い大人なのですから……」 「そんな……いくら何でも失礼ですよ……これから度々会うことになるのに……」 「私は、あの人の事を先輩として信頼しています、人の素直な気持ちに対して心を傾げる人では無い事は保証します。それにΩとしては心済むまで徹底的に拒絶しても構わないとも思ってしまいます……そして、医師としては、本来αもラットをコントロール出来ない事は知識として知っていて欲しいと思うんです……」 「はい……一輝さんを、αを憎んだりは出来ないです……」 「とりあえず、一旦お休みしましょう。まだ決めなければならない日までは随分ありますから」 「そうですね……」  夏海が点滴が終わる頃にまた来る事を告げて、部屋を出てからも、秋野の頭はぐるぐるぐるぐると巡る。  自分がどうするかという事と、一輝がどうなのかという事を行ったり来たりと考えた。  目の前に張り巡らされた天井の木目の様に、何層にも続いていく。    いつの間にかうとうとしていたかと思ったが、ふと気が付けば点滴はもう無かった。そして、襖の向こうから押し殺した声が微かに聴こえる。つい、耳をそばだててしまう。 「今のところ妊娠悪阻と言える程では無いですね。続く間は点滴をした方が良いかとは思います。私もなにか有ればすぐに馳せ参じたい気持ちだけは……」 「本当に、無理を言って申し訳ない……身重だとは思わなかった……」 「無理なんてないですよ。私が来たかったから、黙っていたんです。黒岩さんはうとうとなさっていたので、私はこのまま先に失礼しますけど、一輝さんもご無理なさらないでくださいね」 「何でこんなにαは獣じみているんだろうな……文明社会なのに……」 「αとΩは支え会える様に出来ているとも言えますよ」 「そうだね……」 「では、失礼します。また来れる日をご連絡しますね」 「ありがとう。千穂さんにも心配をかけてしまったでしょう。くれぐれもよろしくお伝えください」  トントンと軽快な足取りで、夏海は遠ざかっていった。    暫く廊下に佇んでいたと思われる一輝から、声をかけられる。 「秋野くん、寝ていますか?」 「いえ……」 「明日はβの先生に点滴してもらおうと思っているけど、どうかな?」 「あの……お忙しく無ければ、で、良いんですけど……一輝さんにお願いできませんか……」 「……勿論、構わないよ」 「……よろしくお願いします」  少しだけ、近付いてみようと思った。 「明日は、草餅を持ってきますね」 「もしかして、隣駅の玉屋さんの……?」 「ふふ……そうですよ。食べられると良いですね。でも無理はしないでください。明日食べられなくても何度でも買ってきますから」 「はい……」  

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