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第5話
朝食は全部まるごと吐き戻した。
昼食は匂いで吐いた。
水を飲んだら噴水になった。
「久子さん……僕は死ぬのでしょうか……」
バケツを抱えた秋野が弱々しく問いかける。
「まあ……ちょっと酷いですけどね……まだ死にはしませんよ……」
「普通に考えたらこの様な状態は死に近いと思うんです……冷静になって考えてみてください」
「生命の誕生と死は紙一重ですからね……」
「妊娠辞めたい……」
久子は痛ましい顔をした。
「私は古い人間です、私のお婆さんなんかは、流さなきゃならんこともあったと言ってましたよ。色んな事情でね、結構居たもんです」
秋野は、項垂れる。どちらにしろ、一輝から離れる事は出来ないのだ。
「ごめんなさい……今のは忘れて……もう少し考えないと……」
「きっと、天地が良いようにしてくださいますよ。今は思い詰めないでくださいませ」
気が付けば、開け放した縁側で途方に暮れている一輝がいた。
「まずは草餅を召し上がってみませんか……」
「あら、気付きませんでどうも」
久子はツンとした物言いだ。
秋野は、急によだれが溢れ出し、そのよだれに溺れそうになったが、草餅は、食べる事が出来てしまった。6個の内4個を食べてしまった。
「先生、食べ過ぎは止めんのですか?」
「そうですね……まあ、多分また何かで吐くので……とりあえず食べれた事を喜びましょう。血圧と血糖値は測りますけど……まあ、若いんでね……そんなに心配な事では無いですね」
「うぅ……残り一つずつ、一輝さんと久子さんでどうぞ……」
秋野は座布団で顔を隠した。
「お茶を淹れ直しましょうかね……」
秋野は座布団の上から、草餅が一回り小さく見える一輝の手と、口をじっと見つめていた。
和室に布団で寝起きをしている為、布団に並べて点滴用に衣紋掛けが置かれている。久子は部屋の隅で黙って座っている。
「まず血圧を測りましょう」
「あ、あ、ちょっと、ちょっとまってください」
すぅふぅ……と、深呼吸をして、膝の上にきちんと並ぶ一輝の手に触れる。お互いにびくりとした事に更にびくりとしてしまう。
一輝は固く握り締めている。その拳を自分の生っ白い拳と見比べ、一輝の指を一本一本と開く。そして、手の平を合わせてみる。
「お父様と同じ位ですけど、少しスッキリしていますね」
「秋野さんは指が細くて長いですね……」
「結構乾燥していますね」
「しょっちゅう手を洗わなきゃならないので、どうしても乾燥してしまいますね」
指と指を絡ませても、一輝は絡み返す事無く手を動かさなかった。そして、手の平を擽っても、ピクリとしただけで動かさない。
「すみません……変な事をして……」
「いえ……好きな様にしてください……私は動かさないです」
片手を両手で持って頬を寄せる、眼と眼は合わせたままだ。
一輝の肩が揺れた。
秋野が噛み付いたからである。親指の根本、ふっくらとした肉に甘噛を。少しずつ強くする。強くしていくたびに、胸に感情が湧いてくる。この感情の名前がわからない。分類出来ない。そして離して、目を伏せた。
「痛かった、ですよね……」
「大丈夫ですよ……」
「腹が立たないのですか……」
「たたないです。私の手が怖いのですよね?」
「…………」
「私は、あなたになら食い千切られても怒りません」
「罪悪感、ですか……?」
「それもあります。けど、番だから、という方が大きい気がします。私には他に番は居ませんから、比較が出来ませんけれど。初めての感覚です」
「居ないのですか……? 結婚もされていないのに……?」
「居ないですよ。誰も、浮いた間柄の方は存在しません」
だから、あなただけです。そういう風に聴こえてしまった事に、秋野は再び俯く。それは呪詛の様に感じられた。本当は必要無かったのだろうと、秋野というΩが一輝を狂わせ、縛りつけているのだと思った。
「もう、大丈夫です。お願いします。ごめんなさい、痛い想いをさせて……」
顔をあげて、そう伝えた。
そして、淡々と、器用に動くその大きな手はお行儀よく秋野のケアをしてくれた。歯型はくっきりと残っていた。
その日から、食べられる日も少し増えてきた。
一輝と共に庭に出て、散歩の様な事をする日もあった。
段のある場所では、家族同様に手を差し出してくれたし、その手に触れる事も出来た。
「そろそろ、病院でエコー検査をしたいんです。夏海さんの病院に行くのが良いかと思っているのですが」
「夏海さんの所ですか……?」
「はい。どうしても触れなくてはならないので、夏海さんの方が安心出来るのではないかと」
「そう……ですね……」
東雲病院に行きたくは無かった。
「私の車でご一緒しても、現地集合でも構いませんよ」
秋野は答えられなかった。一輝を悪い人だとはもう思えない。ふとした瞬間に息が詰まっても、それは反射的な物だと、理解ができている。
「夏海さんは明後日が都合良いそうなので、当日の朝までゆっくり考えて大丈夫です」
「あの、どうしてこんなに僕に時間をくれるのですか……?」
一輝は、キョトンというのがよく似合う顔をする、αのキョトン顔は、意外と可愛い。
「契約だし、必要な時だけでも良いし……仕事だって、忙しいと思うから……」
「はは……割りと暇にしているんですよ、謹慎してるからね」
「謹慎……?」
「そりゃあ、未成年の患者に危害を加えた、自由を奪った事故だから。管理の見直し、治療方針の見直し。当事者に出来る裏方はやっているけど、現場には出ていないんです」
「そんな……αとΩのヒートは責任に問われないはずじゃ……」
「そうだね、法律はね。でも、人の心は違うだろ? 辛かったし、怖かっただろ? 今も悩んでいるだろ? そんな事が起きた病院には、行けないだろ?」
「そうですけど……」
「だけどね、もう時間は戻せない。取り消せない。それならいっそ、せめて、一緒に悩んだから何でも話せる友人位にはなりたいじゃないか」
真剣で、そして、困ったような、複雑と顔に書いてある様な一輝の表情、そして何処か探るような表情……
「何でも話せる、ゆうじん……」
「今はまだでも、君が大人になって、年寄になって、振り返ってみたらそうなってたなーと思ってもらえる事が目標です」
「あの、明後日、一緒に行きたいです」
ギュッと、一輝の手を握り締める。どうしてだか、秋野は一輝を安心させたい、そういう感情が勝手に湧き上がった。秋野は自分の顔にも、複雑と書いてあっただろうと思った。
「気が変わっても良いからね」
「はい……」
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