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第6話
「つわり、おさまりましたね。酷かった割には早かったですね」
久子が呆れた様な顔をする。
「うん。美味しい」
もぐもぐと、いつもの倍くらい食べる秋野に、父兄は心配そうな顔を向け、母は懐かしい顔をしている。
「こんなに食べて、大丈夫なものなのですか……」
「私もこのくらい食べていましたよ。お父様はお仕事が忙しくて覚えてらっしゃらない様ですけど。遺伝かしらね」
「そうですか……」
兄は納得し、父は気まずそうに顔を反らす。
「まあ、なんだ、今日は検査を受けると言っていたが、下ろすのか?」
気まずそうにした側から、話を変えたつもりでデリケートな質問を投げ掛けてくる。
「あなた! またそういう心ない事を!!」
「えぇ!? でも、ほら、大事な事じゃないか……」
久子は、げんなりとしながらお膳を下げ始める。
「すみません……まだ、決められていません……」
「そ、そうだな、ゆっくり決めると良い……」
「ゆっくり決められる事でもありません!!!」
母はお行儀悪く箸を父親に突き付ける。
「どうしろと……」
「お父様、ここは、黙りましょう」
「そうだな……」
豪胆な割に尻に敷かれる父、そこにほんの少しばかりだけ空気を読むというスキルを加えた兄、愛情深く剛毅な母、強めのα達に囲まれて末っ子のΩとして育てられた秋野は、一番気が弱くて大人しい。日々を過ごす為に、気の強さという物を持たなくても良かったのだ。
「いや、しかし、もう少しだけ喋らせてくれ……また怒られるかもしれないけど……」
父がおずおずと口を開く。
「何でしょうか?」
「もし一輝くんが了承しなくても、産むならばこの家で、育てて行けば良い。その、なんだ、俺はな、ちょっと下ろしてしまうのは悲しくてな……秋野が産まれて、Ωだってわかった時にこの家で育てる事をお祖父様とお祖母様に許してもらうのは大変な事だったんだ……その時にお前の将来の嫁ぎ先を決められたけど、それでも良かった。聖子がどうしてもと懇願したからじゃない、本当に可愛いと思った。秋野の子だと思うと、少し楽しみに思えてきてな……」
「あなた……」
母が、少しだけ目を潤ませる。政略結婚で性格も合わないし喧嘩もするが、情の深い夫婦である。
「でも、秋野が決めていいことだと思う。身体を傷めるのは秋野なんだからね……よく考えて」
兄が気遣う。
「ありがとうございます……」
夏海から手渡された写真は、米粒にしか見えなかった。ただの点である。
「異常は無しですね」
相手が夏海であるとわかっていながら、下半身に触れられるのはかなりの恐怖を感じ、強張り、何度も手を止めてもらい、泣きながら深呼吸をして何とか乗り切った。カーテンも開け放して夏海である事を何度も確認した。一輝は車で待っている。
他に誰もいない、休診日のシンとした小さな診療所だ。
夏海は敢えて順調という言葉は使わなかった。
「すみません……上手く出来なくて……」
夏海は、秋野の手をギュッと握り、首を横にふる。
「でも、一輝さんの手は、触れられる様に……なったんです……」
「凄いですね、とても頑張ったのでしょうね」
「噛み付きました……」
夏海はふっと控えめに吹き出した。
「それは凄いですね」
「でも、怒らなかったです、優しかった……」
「良かったですね」
「夏海先生から見た一輝さんは、どんな方なんですか?」
夏海は思い返しながら、愉快な気持ちになる。
「素直に私の気持ちを述べるなら、東雲会長は救世主で、一輝さんは兄ですかね」
「兄ですか……」
思った以上に強い親愛を感じるワードだった。
「前にもお話しましたが、私の両親はβです。普通のサラリーマンで社会的には何の力も持っていないんです」
夏海は、医者になりたいと思った時に、βと同じ様に志せると思っていた。奨学金を借りて、勉強をして、なれると。しかし、実際はそうでは無かった。
一年目の入学試験は自己採点でクリアしていたのに全て不合格だった。
あまりの事に何の反応も出来なかった。両親は薄っすらとわかっていたのだろう、ただ慰めるだけだった。
ところが、すぐに東雲一輝の父親から、個人的に返済不要の奨学金を出す旨、そして留学のパンフレットが送られてきた。他愛ない挨拶など一切無いそれらは、覚悟を見せろと言われた様な気持ちになった。すぐに、親にも相談せずに受けたいという返事を書いた。
後から、悪質な詐欺や悪戯だったかもしれないと心配になほどその時は勢い余っていた。
「それで、実際に一輝さんのお父様がいらっしゃって、親にも説明してくださって、本当に留学しました。その留学先には一輝さんが研修医としていらして、全て助けてくれました。留学した国では、Ω用の抑制剤が既に承認されていたし、Ωの医師も少数ながら居ました。それでも、危険な時は身を挺して守ってくださいましたね」
「危険……」
「はい、やはり不届きなαやβ男性も居ましたから。実際にかなり危ない所を救い出して頂いた事もあります。東雲親子、実はΩのフェロモンにかなりの耐性があるんですよ」
「え……」
「黒岩さんにはとても信じられませんよね。でも、彼等はヒートのΩに触れても冷静で居られるんです。だから私は、黒岩さんとの事を聴いてとても驚きました、信じられませんでしたよ」
夏海は嫌がらせに薬を盗まれ、隠され、飲む事が出来なかった日があった。直ぐに予備の薬を取りに行こうとしたが、運悪く間に合わなかった。
酷い状態になりながら空き部屋に隠れたが、ゾンビの様に扉の外にαが数人居た。どうしたものかと途方に暮れていると、友人が呼んでくれた一輝がαを蹴散らして助けてくれた。そして、抱きかかえて部屋に送り届け、縋り付こうとする夏海に薬を投与して治めた。その間密室に居ても何も起きなかった。父親もそうなんだとケラケラと笑いながら話して、あっさり帰っていった。
「私は、Ωとしての魅力に欠けて居るのかと悩んだ程です。因みに、Ωの恋人が居たこともあるみたいですけど、まるで平気だったそうです。なので、東雲親子は医療の世界が天職なのです」
「じゃあ、僕は本当に一輝さんのお仕事を台無しにしてしまった……取り返しがつかない……」
秋野は青褪める。
「いいえ、彼はそんなやわな人では無いですよ。より一層Ω医師の増員と、抑制剤普及への思いを強くしたでしょうね。一時は落ち込んでいたみたいですけど……それは人間ですから、でも彼はαでもあります、世界を引っ張る力のある本物のαです」
夏海の強い瞳を見て、秋野の心には今までに無い興奮の様な物が湧き出す。
「Ωでも、まだ子供でも、番として一輝さんの役に立てることはあるんでしょうか……」
夏海は少し目を見張りつつも、秋野の手を取る。
「一輝さんがαとしての自分を抑えられなかったのは、黒岩さんだけなんですよ。医師としてでは無くて、Ωとしての言葉になりますが、彼のα性が、あなたのΩ性が、側に居たいと感じたのではないでしょうか」
正直、夏海には、二人が一生を番として生きなければならないなら、ロマンティックな思い込みがあっても良いのではないかという考えがあった。一輝がどんな事情であれ番になってしまったΩを受け入れないわけが無いという確信と、そして、穏やかな性格をした秋野ならば一輝の番として何の不満や心配も無い、それでいい、それが運命でいいと、思っていた。
「今は甘えてもいいんですよ。出来ることなんて、この先いくらでもありますよ。なんせまだ16歳なんですから、これからです」
「そうですね……」
「と……そんなわけで、一輝さんにもお話をしなければならないので、一輝さんと交代しましょう。待ち合いに居てくださって大丈夫ですよ」
「はい。一輝さんを呼んできます」
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