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第7話

 夏海と一輝は診察室でも小声になる。 「申し訳ないですが、私は恐らく精神的に中絶手術は出来ません、そして、産む時期も同じ位なので、出産を選んでも私が担当するのは難しいでしょうし……」 「当たり前だよ、君の妊娠がわかった時点で、取り急ぎの検診だけを頼むつもりだったんだ、既に充分助けられたよ、本当にありがとう」 「あとは、どうなさるんですか?」 「東雲病院が使えなければ、健康状態次第で別荘の方を使うし、俺がダメなら、親父か、他の先生に頼むつもりだよ」 「そうですか……」  別荘というのは大叔父がやっていた診療所であるが、今は父親の番が住んでいる。古い診療所を改装して、父が週に幾日かと、夏の期間だけ避暑がてら毎日開院している病院だ。父は近い内にそちらに引っ込むつもりでいたが、今は東雲病院に舞い戻る羽目になっている。 「なるべく、一輝さんが対応出来るように慣れてもらった方が良いかもしれないですよ。私でも怯えていたので、他の人の方が寧ろ無理だと思います。一輝さん自身に慣れるのが一番辛いけど、早いと思うんです。頑張っていますし」 「うむ……」 「難しいですか?」 「いやあ……いずれはなんとかと思わないでもないが……あんなに若い子は想定外過ぎて、さっぱりわからん。甘い物が好きってことしかわからん」 「黒岩さんも同じ事言ってましたよ……」 「そうなんだ……なんかちょっと嬉しい……」 「もう少しあなたの事を教えてあげてください。知りたがっていましたよ」 「え、なんか変な事教えて無いよね……? 過去の恋人歴とか本当に言わないで欲しい」 「いや言えませんから。私はあれ等を恋人とは思ってませんでしたけどね。ただの東雲の竿でしたよね……? 今でも全員大嫌いです」 「身体に悪いからこの話は辞めよう……本当に……」  過去を思い返すとげんなりとする。伝統あるα家系の中では没落と表現されるが、父親が自ら必要最低限まで解体したのが東雲家だ。おかげで、一輝の母親は話が違うと言って大騒ぎの末に出ていった。一輝個人的にもあまり構ってもらった記憶も無いのでやっと静かになったと思った程だ。寧ろ父親の番の方が余程母親らしい事をしてくれたと思っている。  しかし、財閥を解体したところで資産は多い、一輝に言い寄るのは元財閥の繋がりや資産が目的の者が殆どだった。そんな一輝が庇護下に置いている一般家庭出身の夏海は、嫌がらせを受ける事が度々あったが、Ωの身で医者になろうという彼女は、表向きの穏やかさの中に激情を抱えている。ただ負けるだけでは無かったのが幸いだった。  一輝はいずれ離れていくとわかっていながら、余程でも無い限りは少々不届な輩にも付き合っていた。β家庭を知る夏海にとってはそれすらもとても信じ難い光景だった。 「私は、君の作るおはぎは美味しいなああははーとか言ってる一輝さんの方が余程好きですよ」  「秋野くん、おはぎ作れるかな……」 「いや、寧ろ作ってあげたら良いじゃないですか」 「そうだね」 「一輝さんの好きな日常を好きになってもらえるのが一番素敵じゃないですか……」 「今更無理はしないですよ……夏海さん、何から何までありがとう……」 「良いんですよ。私はもう一輝さんに変な恋人が出来て怒ったり泣いたりしなくて済むんですから……」 「本当にすみません……」 「本当の兄の様に思っているだけです。私には千穂さんが居ますし。もう兄離れするんです」  一輝は、昔の様に唇を尖らせる夏海の頭を撫で回した。 「温泉寄ろうかな」 「良いですね。泉屋さんならΩも入れますよ」 「そうだね」    本当に良い人というのは、どんな失敗をしても周りから真剣にフォローしてもらえるものだ。だから、考え方の違う人にも敬意を持って接しなければいけない。  秋野は父親からそう言われていた。父親は失敗と失言の多い人間であるが、部下にも敬意を持つ為、大切な場では完璧なバックアップ体制が敷かれ、あまりやらかさずに済んでいるのだ。  夏海が語った一輝の姿は素敵な人物像で、それは一輝が助けてもらえる人だという事だ。 「待たせたね」 「いえ……あの、大丈夫でしたか……? 何か言い辛い問題でも……」 「いやいや、それは心配いらないよ。今後の話をしていたんだ」 「今後ですか……」  秋野は些か不安になった。まだ決められていない事がある。 「温泉でも寄っていこうかなあ、とかそんな感じの事」 「温泉ですか……」  Ωは温泉に入れない事が多く、秋野は行ったことがない。元々β用の保養地として栄えた温泉街が多く、富裕層向けのα男湯女湯、βの男湯女湯は多いが、Ω用は非常に少ない。稀にβ用にならば入れる所もある。 「そう。この近くにね、個室に温泉がついてる宿があるんだよ」 「個室なら僕も入れるんですか?」 「入れるよ。日帰りでも入れるしね。幸い平日だからまだ空きがあると思うんだ。食事も出来るし。行ってみる?」 「行ってみたいです」  一輝の口調はいつの間にか砕けたものになっている。秋野はその事にあまり意識は行っていない。  勢いのある秋野の口調と真剣な顔に、一輝は頬の緩むのを感じた。    和室の部屋に、内風呂と露天風呂の両方がある。張り替えたばかりの様な少し青い畳は、日本家屋で暮らす秋野にも清々しい気持ちになる。初めての温泉にドキドキと高揚してしまう。映画やドラマで見る温泉、αやβの友達が話す温泉、長期休暇になると久子は必ず行っていた。さぞや素敵なものなのだろうと話を聴きながら想像していた。 「温泉饅頭!」 「ええ、お茶うけにどうぞ」  中居さんの持ってきた蒸したての温泉饅頭に、秋野はいよいよ夢心地になった。蒸籠の木と黒糖のふっくらとした優しい香り、ふわふわと上がる湯気。一応のお行儀として中居さんが退室するのを待って、目上の一輝に目線を向けてみる。 「遠慮しないでお食べよ」  さっそく手を伸ばして頬張る。飲み込むのが勿体ない。 「おいしぃ……」  一輝も温泉饅頭を齧りながら、秋野を眺めていた。  秋野は、見つめられているのに気が付いて、きちんと話さなければいけない気がしたが、声が出てこない。急に、温泉饅頭がただの甘い塊に感じられてしまった。 「どうしたのかな……」  わかっていながら、一輝は静かに訊ねる。 「あ……あの……一輝さんは……その……」 「うん?」 「赤ちゃん……産んでほしい……ですか……」  温泉饅頭を半分持ったまま、そんな質問をする。自分がどんな答えを求めているのかさえわからない。 「俺は……というか、大人の殆どは色んな顔を持ってると思う」  秋野は、一輝の目を見つめる。 「自分の子供は、持たないと思ってたんだ」  秋野の胸がギュッと縮こまった。これは悲しい時と同じ感覚だが、何故悲しいのかはわからない。その先の言葉を必死で待つ。 「だけど、産まれたらどんな事を一緒にしようかって考えると楽しい気持ちになってしまう、幸せな気持ちになってしまう。でも秋野くんの心と身体は? って、医者の俺がそれを押し止める」  ドキドキが、激しくなる。 「少なくなった、とは言え、産む側や産まれてくる子供は重症を負う人、障害が残る人、最悪の場合亡くなる人、全力で守ろうとしても掌からこぼれていく。俺は人よりも見てきたつもりなんだ。多くの人達が無事に乗り越えていくけれど、産まれてくるのは当に奇跡なんだと思う。何としてでも助けるという矜持もあるけどね」  辛そうな表情をする。 「中絶手術にだってリスクはある。もし番を失ったら……秋野くんを失ったら……俺は耐えられるんだろうかと本能が怯える。番はね、Ωと子供どちらかしか選べないと伝えた時に言い終わる前にΩを選ぶ事が殆どなんだ、ほぼ全員。だから、この事に関してはまだ何も考えが纏まっていない。ごめん……」 「そうですか……」 「ごめんね……」 「お風呂、入りますね」 「滑りやすいから、気を付けて」  食べ残していた半分の温泉饅頭は冷めきってしまったが、それでも口に入れれば甘い。嬉しい事だった。  

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