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第8話

「あのう……一輝さん……変な匂いと色なんですが……」  内湯の脱衣所扉の隙間から片目を出して訴えてくる。 「ここ、鉄分が多いからね。茶色くて鉄臭ければ正常だよ。長湯したらだめだよ。普通のお風呂よりのぼせやすいからね」 「わかりました……」  ホッとして、身体を丁寧に洗い流す。家で家族と同じお風呂を使うように、普段より少し丁寧にすれば良いはずだ。きっと。  ドキドキしながら、怪しげな茶色いお湯に触れる。手が直ぐに鉄の匂いになる。  お湯を囲む石に鉄が体積して茶色い。  足をゆっくりと漬けても、特に普通のお湯と変わりない。肩まで漬けて、ふぅと息を吐く。ジワジワと冷えた身体が温まる。ピリピリと刺激的に血が巡る。 「温泉凄い……」  はっきりと普通のお湯と何が違うのかわからないが、とても良かった。  いつまでも浸かっていたい。一頻り初めてのお湯を楽しんでみると、先程の話が頭に浮かぶ。何でも話せる。その一つの様な話だ。大人は様々な状況を考えて答えが出せない事があると、久子が言っていた。きっとそれだろう。  窓の外で、ザザッというお湯の音がする。窓の方をみると、露天風呂が見えて、そこに浸かる広い背中が見える。別々に入る気遣いだが、物理的に遠い感じが、少し寂しく感じられた。この気持ちの方を大切にしたくなる。  窓を開けると、その音に気付いて一輝が振り返る。 「どうかした?」 「いえ……何となく……」  遠くに居るからこそ、裸であることに落ち着いてドキドキしてしまう、という矛盾を秋野は抱いた。 「初めての温泉はどう?」 「あったかいですね……外のお風呂も気持ち良さそう……」 「後で交代しよう」 「はい……あの、一輝さん」 「なんでしょうか」 「一輝さんにとって、何にも悲しい事の無い、僕達の一番幸せな未来の想像ってどんなものですか?」 「そんなのは、決まっているよ。何の問題も無く、妊娠期間を過して、その間に君と仲良くなれて、無事に子供が産まれて来て、嫌なこともあるだろうけど、それでも楽しく全員で歳をとる事」  それは、まるで普通の夫婦みたいな間柄だと思った。 「まだあるよ。なんとしても先にボケて秋野くんに酷い苦労をかけながら甘えるんだ。財布がない、盗まれたかもしれないって大騒ぎをして、秋野くんに、これはなに!? って財布をチラチラされながら聴かれる。そしたら俺は、君が盗んだのか! って言う。秋野くんは毎日行われるその遣り取りに凄くイライラする。俺にイラついてる顔も、きっと可愛いんだと思う」  秋野は堪らず笑い出す。 「ヨボヨボの癖に、君をデートに誘うと思うんだ、何度も何度も」 「何処に連れて行ってくれるんでしょうか」 「歳とったら行く所なんてデイサービス位ですよ。自慢するんだ、ワシの番は若くて美人だろう? って」 「流石に僕もお爺さんですよ」 「うん。でもきっと綺麗だと思う。秋野くん、俺の前で初めて笑ってくれたね」  はたと頬を触って確認する。笑ったのが久しぶりで、頬がジンジンした。そんなにずっと仏頂面だったのだろうか。 「綺麗な笑顔だね」 「そんな事無いです……もう、上がりますね……」  秋野はざばりと立ち上がるが、その瞬間にぐらりときて、頭がすぅと白くなった、苦しくて風呂の縁に捕まる。頭が重くて上げられない。  一輝は露天風呂から飛び出して駆け寄った。 「ちょっとだけ我慢ね……」  抱き上げられて、風呂から出される。濡れた肌がピッタリと触れている。  脱衣所の椅子でタオルに包まれた。 「すみません……気を付けてって……言われてたのに……」 「初めてだからね。クラっときただけで良かったよ」  テキパキと浴衣を着せられて、畳に転がった。 「白湯飲める?」  いつの間にか一輝も浴衣だ。丈が少し短い。 「暫く転がってて大丈夫。お家に電話してくるよ」 「すみません……」  お腹を撫でる。 「大丈夫ですか……? ごめんね、びっくりした?」  話しかけてみて、急に存在が発生した。それは稲妻が走る様な衝撃だった。  この豆粒は、存在して、生きているのだ。  秋野の目からは次から次へと涙が溢れ出す。喉が引きつり、嗚咽の様になってきた。 「どうした……」  戻ってきた一輝は、困惑しながら駆け寄る。 「どこか痛みがある? 吐く?」  秋野は必死に首を横にふる。 「怖い気持ち?」  それにも首を横にふる。  秋野は、言葉にならない状態をどう伝えるべきか、何となく理解して、腕を伸ばして、なるべく触れない様に距離を取っている一輝に触れる。  引き寄せて、首にしがみつく。  暖かい頭を抱え込んで胸に抱いた。  一輝はそっと抱き返して、秋野を膝に乗せる。大きな身体だと思った。誰かに抱っこをせがむのは、子供の頃以来だ。  静かに、背中を撫でて落ち着かせてくれた。   「本当に、痛い所、違和感のある所は無いね?」 「だい……じょぶ……急に、赤ちゃんがいるって思ったら……びっくりしてしまって……」 「そうか……」  初診で泣き出す人は多い。ホッとする。 「あの、好き合って、番になったわけじゃないのに……楽しくなんてなれるんですか……? 嫌な気持ちになったり、しないんですか?」 「秋野くんは、とても綺麗で、凄く素敵な人だと思う。番になったのが秋野くんで良かったと、本当に心からホッとしている位だよ。だけど、秋野くんにとっては、こんなオジサンに乱暴に番にされて、凄く怖くて辛い気持ちになったんじゃないかと思う。申し訳ないと、思っている」 「僕の方こそ、一輝さんは番なんて欲しくなかったのに、番になってしまって、お仕事の邪魔をして、子供で、一人では何も出来なくて、たった一月ちょっとで、すでに世話ばかりかけてる……きっとこれからもっと沢山の面倒をかける……もう全然、怖くなんか無いんです。一輝さんで良かったと思うんです」  一輝は、薄っすらと微笑む。 「あの……産んでも良いですか……僕と、番で居てくれますか……」 「……当たり前だよ、当たり前の事だよ」  一輝は秋野を抱き直す。 「良かった……」  秋野は、肩の力が抜ける、というのはこういう事かと思った。

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