3 / 5

3

 マーカスの言う通り、世界は何のトラブルも起こすことがない。またペリーは出張に行き、帰ってきたらバスルームに籠もる、お決まりの流れだ。  あれはつわりってものなのかも。グーグルで調べた結果、オマールはそう結論づけた。それならば納得が行く。妊娠して最初の頃は吐き気が止まらなくなるのだそうだ。そうでなくても、妊夫は体調を崩しやすい。無理して遠くへ出かけなくてもいいのに、と思う。  時にはバスルームへ行く前、青い顔をしてベッドに横たわっているペリーの額へ、オマールは冷たいおしぼりを当ててやる。ペリーはびしょびしょのタオルの下で力なく笑い、「お前は優しい子だな」と手を握ってくれた。おなかに耳を当ててもいい? と聞けば目を閉じて、そっとだぞ、と呟く。  膨らみがある場所は怖いし、あまり触れると彼が苦しそうな息をつくので、少し上へ頬を当てる。こうすれば赤ちゃんの心臓の音が聞こえると言うが、よく分からない。ぎゅるぎゅる、ぐるぐると、まるで空腹の時か、或いは腹を下しているような響きが届けられるばかりだった。 「いつ産まれるの」 「さあ……出来るだけ早けりゃ良いんだけどな」  汗ばんだオマールの髪を指で梳いてやりながら、ペリーは唸った。 「もうこんな状態、うんざりだ」 「くるしいんだね」  オマールが尋ねれば、少しの逡巡の後、こっくりと頷きが返ってくる。 「マーカスは、まだ今の仕事を辞める気はないって……分かるよ。俺だってそうするべきだと思うし、彼に協力したい。でもなあ……」  ぐるぐる、ぎゅるぎゅる。音は益々激しくなる。「やべっ」と短く叫び、飛び起きたペリーの後ろ姿がバスルームへ消えたのを確認し、オマールは寝室を出た。こう言うときはそっとしておいてあげるのがマナーだと、産婦人科のホームページには書いてあったのだ。  キッチンでメイドが焼いてくれたホットケーキを食べ、もう大丈夫だろうか、と新たなタオルを持って戻ったのは30分程経ってからのこと。寝室のドアノブを掴めば、音も立てずに回る。鍵が掛かっている部屋に近づいてはいけないとマーカスは常々弟に言い聞かせていたが、つまり逆はそうじゃない。  念のため、まず扉を指一本分だけ開くのに留めたのは、押し殺された苦しげな呻きが聞こえてきたからだ。まだペリーは、吐き気を堪えているのかも知れない。ならば医者を呼んであげないと。  余りに具合が悪いとき、ペリーは横たえた身を芋虫のように丸め、腹を庇うように抱えていることが多い。だが今の彼は裸で、しかも同じく苦しさを感じているようでも、すっきり平らな腹を天井に向け、必死に上下させ息を継いでいる。  どういうことなのだろう。もういい加減、彼の胎の中で、赤ん坊はかなりの大きさに育っているはずだ。だが鍛えられた腹筋は相変わらず綺麗に割れていて、この前見た程度の膨らみすら影も形も見あたらない。  それに、同じく裸になったマーカスがベッドへ膝を突き、ペリーの脚を抱えて揺さぶっていること。これはどう考えても良くないのではないか。命をその身へ宿している人間にあんな乱暴な真似をしたら、身体の中の赤ん坊が怪我をしてしまうかも知れない。 「マーク、あ、やっ、それキツいって、っ!」 「嘘付け、出したばかりで、興奮してるんだろう。お前、いっつもそうじゃんか」 「ひ……! やだ、もうイく、無理、イくイくイく……! 孕む、っ、赤ちゃん、出来ちゃう!!」  悲鳴じみた声でそう叫びながら、ペリーは枕へ後頭部を擦り付け、身を仰け反らせた。間違いない。彼の腹は今、空っぽだ。  何が何だか分からないまま彼らの部屋を後にしたオマールは、夕飯までの時間を自室で沈思黙考に宛てた。妊娠を継続したまま、彼の腹がへこむなんて、そんなことあり得るのだろうか。でもさっき、ペリーは身重の辛さを嘆いていたし、悪阻も治まっていないらしい。なのに兄に揺さぶられながら「赤ちゃん出来ちゃう」なんて言っていた。となると。    じっくり検討してみた結果、一番確実だろうと思われるのは、やはりペリーがメキシコで神様とやりとりをしたという可能性だった。流石にオマールも、赤ん坊を産むことの出来ない事情というものが、番関係の可否に限らないとは知っている。ペリーか、胎児の身体に危険があったのかも知れない。  となると、気のいいペリーのことだ。赤ん坊の到来を楽しみにしていたオマールを傷つけまいと、嘘をついてくれていたのだろう。そして気付かれる前に、もう一度妊娠しようとした。  彼にそんな気を遣わせたなんて、とても悲しい。残念で、歯痒い。妊娠が決して安全なものではないと知っているから(父に「お前を産むときどれだけ大変だったか」と耳にたこが出来るほど聞かされた)余計に、無茶はしないで欲しいと願いは膨らんだ。  同時に、マーカスとペリーは早く番になり、結婚すればいいと、心の底から思う。何せ彼らは愛し合っているのだし、ロサンゼルスで一番素敵な2人なのだから。  病院の駐車場でアイドリングするリンカーンの中、バスキン・ロビンスに寄って買ってきたアイスクリームを食べながら、マーカスにそう提案すれば、「このマセガキ」と頭を小突かれた。 「大人の事情に首を突っ込むんじゃない」 「でも、ペリーはマーカスと結婚したいし、赤ちゃんが欲しいって言ってたよ」  幾ら空調が利いている車内とは言え、じっくりじっくり食べ惜しみしているコットンキャンディとロッキーロードは、そろそろコーンの上から溶けつつある。運転席にいる部下へバックミラー越しに視線を投げ、設定温度を下げるよう命じてから、マーカスは隣で腰掛ける弟に、自らの注文したレモンソルベを差し出した。彼は余り甘いものが好きではないし、先ほどからオマールが物欲しそうに眺めていたのへとっくに気付いていた。 「まだ潮時じゃ無いのさ」 「しおどきってなに?」 「タイミングってこと。俺達の仕事は今のところ、ペリーの身体が要だ──要って分かるか? 何よりも重要って意味だ。奴が妊娠したら、商売がパーになっちまう」  がぶっと大きく歯形のついたソルベを舐めながら、マーカスは仲間へするように肩を押し付け、オマールにひそひそと耳打ちした。己の手元からシートへ黄色い滴が落ちたのには、間違いなく気付いているはずなのに、彼はしまったという表情も浮かべない。だから多分、先ほどオマールが慌てて擦ったチョコレートアイスの染みを見つけたとしても、叱りつけることはしないだろう。 「いや……実を言うとな。あいつの代わりに仕事をやってくれる人間は、探そうと思えば幾らでも見つけられるんだ。でもあいつはうちの組織でトップクラスの凄腕だし、何よりプライドが高い。本人が辞めたがらないだろうよ」 「オメガってみんな、プライドが高いんだね」 「どうだかねえ。あいつの場合はまた特別だ。エベレスト級だからな」  そうこうしている内に、噂の本人が助手席へ乗り込んできた。てっきり、レイバンのサングラスで隠している目の痣を治療して貰ってきたのかと思ったが──喧嘩するほど仲が良いとはよく言ったもので、素敵な2人は時折、殴り合いも辞さない派手な争いを繰り広げるし、その頻度はここのところ確実に高まっていた── ペリーはむっすりした顔で、手にしていた紙をマーカスに差し出す。  ざっと中身に目を通したマーカスは、すぐさま相手にそれを返し、シートに沈み込んだ。ひゅうっと高い口笛は、安心の印だった。 「喜べよ。こいつは今妊娠していますって、また医者のお墨付きを貰ったぜ」 「よせよ、マーカス」  ドスの利いた声でそう吐き捨ててから、オマールの惨状に気付いたのだろう。「口、拭いてやって」と溜息混じりに、後部座席へハンカチを差し出す。 「拗ねるなよ、ハニー。稼げる内にがっぽり稼ごうや。商品は幾ら捌いて足りない位なんだから」 「もう俺はケツの穴が擦り切れそうだよ」 「おっと、子犬ちゃんの前で汚い言葉遣いは無しだ」  ごしごしと汚れた弟の口元を吹きながら、マーカスはすっかり気楽な調子で嘯く。 「でも来月一杯分のヤマを終えたら、少し休暇取っても良いかもな。オマールも連れて、どこがいい? ティファナとか?」 「お前、ぶっ殺すぞ」  オマールを使うなんて、この卑怯者、と唸りながら、苛立たしげに首輪の周りを掻き毟るペリーを見ていたら、流石に言葉を飲み込まざるを得なかった。メキシコへ一度言ってみたい、皆が恐ろしいことを言っておどかすが、神様が降臨するのだ。きっと素晴らしい場所でもあるのだろうから。その2つの要素が並立することだって、十分可能だと、オマールはもう知っていた。

ともだちにシェアしよう!