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妊娠していようといなかろうと、ペリーは旅行から戻ってくる度にバスルームへ閉じこもる。今日は帰宅するや否や一直線、流石のマーカスですら心配して様子を見に行ったと言う。
学校から帰ってきたばかりのオマールも、こっそりと後をつけ、聞き耳を立てる。鍵が掛かっているから入ろうとしてはいけない、それは間違いない。だが中に足を踏み入れていないのだから、これはぎりぎりセーフだ。
分厚い、この家のどの扉と同じく鉄板が挟まれているドア越しだと、声はくぐもって聞こえる。それでも、ペリーが辛そうに、心底苦しそうに呻き、泣いてすらいる事は、疑いようがなかった。
「もう無理だよ。身体、きつい……が、いつ破れるか、最近は夢にまで……」
「分かってる……別の……屋を……」
「やめろよ! ……俺、ちゃんと仕事で役に……」
「ペリー、ペリー……」
「捨てないで……」
「なあ、落ち着けよ。お前、ちょっと頭冷やした方がいい」
不意に声が間近に聞こえ、足音が近付いてきたものだから、逃げる暇もなかった。部屋から出てきたマーカスは、その場で立ち竦むオマールを認めるや否や、すぐさま強張った表情を笑みに弛緩させた。
「ペリーの奴、今ちょっと具合が悪いんだ。お前、側にいてやってくれないかな」
「うん……」
両手で掲げ持たれるそれはタオルに包まれているうえに、己の目線よりも高い位置にあるから、中身を知ることが出来ない。不意にオマールは、以前テレビドラマで観た出産シーンを思い出した。飛行機の中で突如産気づいたオメガを救う天才医師。彼女は生まれた小さな命を、ああやって大事にタオルで包み込み、父親に抱かせた。彼は涙を流し、産声を上げる幼い子供に頬摺りする。
あの父親と同じく、ペリーもすっかり疲労困憊していた。ワインレッドをしたタイルにへたり込み、禄に乾かしもしない癖毛が顔に張り付いている。寝間着代わりのTシャツとハーフパンツは辛うじて身につけていたが、服は濡れた身体へ張り付き、酷く居心地が悪そうだった。
足下に丸まった状態で落ちているバスタオルを拾って差し出せば、むずかるように乱暴な仕草で手を振られる。じゃあせめてブラシを。これまた床から取り上げようと身を屈めた時、ふと薄桃色の固まりが目に入る。
コンドームだ。赤ん坊を作らないようにするための物。マーカスとペリーが抱き合った後に部屋へ入れば、よくゴミ箱に捨ててある。
普段は何だかぐちゃぐちゃに濡れた状態で、丸めて捨ててあるそれには、白色をした丸い錠剤が詰め込まれていた。幾らゴムとは言え、こんなに伸びるのかと驚くほど、ぎっしりと。握り込めばオマールの手の中へ、辛うじて隠すことが出来るくらいの大きさがある。
「出てけよ。悪いけど、今は構ってやれない」
「でもマーカスが、一緒にいろって……」
「あいつの言うことだったら何でも聞くのか。やめとけ、お前の兄貴はとんだ人でなしだ」
「ううん。僕が思うんだ。一緒にいたいって」
ゴムをジーンズのポケットに滑り込ませ、そっと触れた肩は、酷く震えていた。「寒いの?」と尋ねれば、「寒い」と帰ってくる。もう冬も近付いているのに、彼は冷水のシャワーを浴びていたらしい。濡れ髪からぽたぽたと垂れる雫は氷のようだった。
いつもマーカスが、泣いている自らへしてみせるように、ぎゅっと強くハグを与える。ペリーも黙って、背中へ腕を回してきた。狭い肩に額を押し当てられ近付いた時、彼の耳の付け根からふわりと甘い香りが漂ってくるのを嗅ぎ当てる。いつもオマールの頭をぼんやりさせる、特別な匂いだった。
「あいつが、マーカスの事が、時々大嫌いになる。俺達は決して離れられないって、分かりきってるのに」
「うん、そうだね……」
「運命なんだよ! なのに、あいつは認めない。俺をそんなものに縛り付けたくないって……縛り付けられる覚悟が、あいつがいなくなっても一生縛り付けられて、地獄へ道連れになる覚悟があるなら、子供を産めばいいって」
「赤ちゃん、いらないの?」
「もう分かんねえよ! 今こうして揺らいでる自分が、死ぬほど嫌いだ……」
「ペリー、そんなこと言わないで」
それ以外に、どんな言葉で慰めれば良いのだろう。全てが信じられなかった。マーカスが、そんなことを言うとは思えない。ペリーが己自身を嫌う理由なんて一つもない。
何かがおかしい。少なくとも、ペリーがこうやって、赤ん坊のように手放しで嗚咽する必要など、決してないはずだ。
戸惑いながらも、あやすように背中を叩き続けていれば、少しずつだが乱れた呼吸が収まってくる。のろのろと身体を離しながら、ペリーは涙と鼻水にまみれた顔を、タオルで乱暴に擦った。
「これまで散々医者に高い金掴ませて偽の診断書を書かせてたのに……なあ、オマール。俺、本当に妊娠したんだよ」
「嘘でしょ」
「嘘じゃない。お前、叔父さんになるんだ」
どぎまぎとうるさい心臓は、「まだマーカスには内緒だぞ」と囁かれれば、余計にその鼓動を大きくする。
「でもペリー、赤ちゃんが欲しいか分からないって……」
「まだ考える時間はあるさ。いざとなったら、幾らでも方法はあるし」
「メキシコで?」
「いいや、薬はこの家に腐るほどある」
力なくオマールに笑いかけるペリーの声は、まるで100歳の老婆のように嗄れていた。
「全く、自分が運んでるブツの世話になる日が来るなんて、夢にも思わなかったな」
ポケットの中がずんと重くなり、比例して心までも地の底へ引っ張り込まれるかのようだった。
「堕ろすとは限らないよ。マーカスとも、ちゃんと話をするつもり。落ち着いて話せば、納得してくれる。あいつは親父さんのことがあって、ただ怖いだけなんだ」
はっとなって顔を持ち上げてからの、ペリーの身のこなしは素早かった。立ち上がってバスルームのドアを閉め、鍵を掛ける。便器のタンク裏へ手を突っ込んで取り出したスプリングフィールドXDは、慣れた手つきでコッキングされた。
「ペリー……」
「静かに」
短くそう叩きつけながら、バスタブを手で示す。オマールが中へ潜り込んだのを確認してから、ようやく「マジかよ」と低い呻きが喉奥から漏らされた。
外は大混乱。罵声、銃声、どたばたと耳障りなほど厳めしく性急な足音。
安全だと保障された場所に、危機が迫っている。ひょこりと顔を覗かせ、オマールは扉脇の壁に張り付いているペリーに潜めた声をぶつけた。
「悪い奴ら?」
「ああ、でも大丈夫」
見えることのないドアの向こうを見透かそうとでも言うように、必死の凝視を続ける青年の横顔は、台詞を裏切る。
「嫌な予感はしてたんだ」
「マーカスは無事?」
「あいつは逃げ足が早いから……」
また銃声。そこに呻き声の多重奏が混ざるに至って、とうとうオマールは両手で耳を塞ぎ、バスタブの中で身を丸めるしかなくなった。
小学校でも訓練をしたではないか。銃を持った人が建物の中に入ってきたら、ドアに鍵を掛けて閉じこもり、出来るだけ静かにして、物陰に隠れなさいと。先生の指示は今、全て完璧にこなしている。だから大丈夫。
ペリーも言った、マーカスは大丈夫。そして何よりも、マーカスは嘘をつかない。「俺と一緒にいれば、何も怖いことなんかないからな」
マーカス、早く来て。僕達を助け出して。僕と、ペリーと、ペリーのお腹の中の赤ちゃんを。
余りにも小さく、小さく縮こまり、強く、強く耳を塞いでいたので、肩を揺さぶられるまでペリーの呼びかけに気付かなかった。
「まずい、奴ら俺を捜してる」
「ペリーを? オメガだから?」
「いや、俺がこの街一番の運び屋だから。奴らは俺達のシマを奪って、ここで直に商売をやる気なんだ。だから慣れた俺を使おうと……前から誘いは掛けられてたけど、くそっ」
聞き覚えのない言語で轟かせられる怒鳴り声と、物を壊す音は、もはや扉一枚を隔てた場所まで迫っていた。ペリーは銃を床へと置き、喉元に填めていた首輪を外した。ふわりと、凍えて澄んだ空気へ広がる甘い匂いは、たちどころに狭い室内一杯に満ちる。
「オマール。俺の項を噛め」
「ど、どうして?」
「俺が連れ去られたら、お前は確実に殺される。俺と番になれば、2人とも無事だ。片割れを失って狂ったオメガなんて、使い物にならないからな」
「いやだよ、ペリーの運命の番はマーカスなのに!」
「マーカスが無事かは分からない。お前の為なんだ、早く!」
こんな時なのに、また頭がくらくらする。駄目だ、以前誓ったではないか、マーカスがいなくなったら、彼を、彼らを守ると。そもそも、マーカスがいなくなるなんて。
「我が儘言わないでくれ」
「いやだ、いや! やめて、ペリー!」
無理矢理親指を口へ突っ込まれてこじ開けられる。だらだらと犬のように垂らす涎が彼の指を汚そうとも、構っていられない。必死に首を振って逃れようとするが、後頭部を強く鷲掴まれ、ぐいと下げられた首筋に顔を押しつけられた。眼鏡が外れて、床へ落ちる、かしゃんと硬い音へ意識を奪われるよりも早い。脳を直接がつんと殴りつけるかの如く強烈な刺激が、芳香という形を取って流れ込んでくる。溢れる唾液はもはや顎をべたべたに濡らす勢い、身体の痺れが止まらない。
まるで己の異変が共鳴したかのように、やがてペリーも身を震わせ始める。
「くそっ、兄弟だから、匂いが似過ぎてる」
拘束する手から力が抜け、大柄な体躯はそのまま、ずるりと床へ這い蹲る。
「ペリー?!」
よろめきながらも、必死に彼へ取り縋ろうとすれば「触るな!」と切羽詰まった声で制止される。
「畜生、最悪だ、こんな時に……」
「大丈夫? お願い、起きて」
「頼む、洗面台の鏡の裏に、ヒート抑制剤……オレンジの薬ケースが入ってるから……」
震える指で示された場所へすっ飛んでいき、引き毟るように鏡を開く。剃刀や歯ブラシなどが洗面台へ転がり落ちて派手な音を立てたが、もはや構っていられない。
劇薬指定と書かれたラベルが貼られたプラスチックのケースを受け取り、何とか蓋を開くことにまでは成功する。けれどペリーの手はそのまま容器を取り落とし、中身をタイルの上にぶちまけてしまった。
「何なんだよ、もう、勘弁してくれ……っ、どうして俺、オメガなんかに産まれたんだろ……」
そのまま突っ伏し、肩を震わせる彼の背を撫でてやることが、マーカスから任された仕事だ。
けれどオマールは、床に転がっていた拳銃を掴み、ドアへと向けた。激しく叩く音はもはやノックと言う範疇を越え、力任せに破る為の物へと変わっている。彼らの試みは、もう幾らもしないうちに成功するだろう。
以前マーカスに教えて貰ったから、使い方は知っている。両手で握り、脇を締め、絞るように手のひらへ力を込めながら引き金を引く。
彼がいない以上、自らが戦うしかない。僕はアルファだ。オメガを守らなければ。涙と興奮が目を霞ませずとも、流れる汗に幾度と無く目元を擦ったせいで、眼鏡などなくても視界はぶれきっている。見えなくても構わない。狙う場所は一つだ。倒れ伏すペリーの前に立ち塞がると、オマールはその時を待ちかまえた。
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