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第3話 不機嫌な主人(1/1)

 翌朝、七月が起こしにゆくと、雫は不機嫌だった。  七月の前では飾らぬ雫だが、成長とともに不満があれば言語化し、近頃は進んで歩み寄ることが多い。察してくれとでも言いたげな、幼げな態度は珍しかった。  フレンチトーストをねだられ、サラダのトマトが多いと愚痴られ、寝不足ぎみに七月の運転するセダンの後部座席におさまった雫が、小さくため息をつく。きっと昨夜のことが堪えたのだろう。七月も内心、嘆息したが、いずれ久遠と対面すれば機嫌も直るだろうと楽観し、ハンドルを握った。  緩やかに車を前進させ、公道に出る。数分後、車窓を過ぎゆく景色を投げやりに眺めていた雫が、チラチラとバックミラー越しに七月を気にする様子に気づいた。子ども返りの原因はわかっている。まっさらに近い雫に、経験させるのを急ぎ過ぎただろうか。はじまったばかりの「授業」への不満や拒絶をどういなし、丸め込むか、七月は幾つかの手段を考案しながら、前方へ視線を転じた。  やがて七月の脳内に幾つかの説得方法が出来上がる頃、雫が身を乗り出した。 「あのっ、七月……!」 「はい、雫さま」  ポーカーフェイスのまま、内心、身構えた七月に、雫は意を決した顔を赤らめた。 「ゆ、昨夜はその……すまなかった……っ!」 「え?」  頭を下げられ、混乱した七月へ、雫は予想だにしなかった言葉を紡いだ。 「きみがちゃんと教えてくれようとしていたのに、は、恥ずかしくて……っ。昨夜は、本当に嫌じゃないところで、その、嫌だと……言ってしまった。上掛けを、捲られるのが怖くて……っでも、きみを拒むつもりはなかったんだ。次からは、もっと、ちゃんと、する、から……」  だから、と続ける雫に、一瞬、見惚れた七月は慌てて前方に集中し、ブレーキを緩く踏んだ。おかげで返事をする前に、少し間が空いてしまう。 「呆れた、だろうか……? そうだよな……。でも、あの、その、よ、良かった、から……っ。次からも、できればきみに……っ」  注意深く観察すると、雫は小刻みに震えていた。落第扱いされ、放り出されるのを畏れているのだ。そんな雫を前に、七月は少し意地悪な気持ちになった。 「……なぜ、私にそれを?」  言う必要のないことでは、との意味を持たせ、トマトの返礼だと心の中でひとつ、借りを返すつもりで尋ねる。 「七月に、誤解されたくない……。おれのことをちゃんとわかってくれている、ただひとりの人だから。だから……っ、隠し事は、したくない。し、誤解も、できれば、されたくない……っ」  羞恥に頬を染め、決然と訴える雫は今にも泣き出しそうだった。こんな顔の雫を、久遠の前に出すわけにはいかない。それ以上に、雫が昨夜のあれをどう解釈したかを、まったく見誤っていたことに七月は気づいた。 「雫さまは……私に、ああいったことをされるのが、嫌ではありませんか?」 「そんなこと……っ! ない……っ。大叔父さまにも言ったけれど、七月にされて嫌なことなんて、ひとつもないよ」  俯いていた顔をぱっと上げ、耳まで朱く染める雫に、思わず本音が漏れた。 「――まいったな……」 「あ……ご、……」  面倒くさいことを言い、七月の手を煩わせたと思ったのだろう。謝罪を口にしかけた雫に、七月は急いで補足した。 「謝る必要はありません。むしろ、そうした感情は大切になさってください。雫さま」 「えっ、感情……? どう、いう……」 「羞恥心、というやつです」 「羞恥、心……」  言ってしまってから、七月は心中、舌打ちした。雫の前だと猫を被っているつもりが、時々上手くいかなくなる。本当なら、今すぐ路肩に停車させ、雫を抱きしめてしまいたくなっていた。 「アルファはオメガの恥じらいに、執着するものです。ですので、そのままのあなたでいらした方が、久遠さまもきっと喜びます」 「それって……」  七月の与えた言葉が希望の光になり、みるみる雫の表情から不安が駆逐されてゆく。内心の動揺を悟られずに済んだことに安堵した七月は、駄目押しをはかった。 「初日にしては、順調な滑り出しだったと、七月は思っておりますよ」  頑張っておいでです、と些かわざとらしい褒め方をすると、雫はむずがゆい表情になり、花が咲くように礼を言ってきた。

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