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第4話 級友・幼馴染・親友・恋人・婚約者(1/1)
七月の運転する車は、西園寺邸の正門をくぐると、楡の街路樹が続く曲がりくねった私道を延々と走った。
庶民感覚の完全に抜け落ちた広大な敷地の中央に建てられた豪奢な邸宅は、代々続くアルファが世代交代を繰り返しながらどうにか生き残ってきた、排他的な経営方針を執る音瀬商事のそれとは比べ物にならない、日本屈指の巨大企業体である西園寺グループの総裁、西園寺恒彦(さいおんじつねひこ)の所有物だ。その嫡子の久遠が、邸の正面玄関前に小さく見えてくると、念のために七月は雫に確認を取った。
「雫さま。くれぐれも、久遠さまには」
「うん。秘密なんだよな。わかってる。言わないよ」
釘を刺すまでもない顔で雫は素直に頷き、久遠のいる方へ視線を向けた。
「おはよう、雫。ゼミの課題、ちゃんと終わったか? 七月、いつもありがとう」
朗らかな挨拶とともに、セダンの後部座席へ長身を折りたたみ乗り込んだ久遠は、天然性のふわふわしたくせ毛の持ち主だ。
「おはようございます、久遠さま」
「おはよう、久遠。もちろん終わったよ。今回はちょっと自信がある」
雫が応じると、久遠は向日葵のような笑顔で「あとで答え合わせしよう」と提案する。雫に心底、惚れているらしきこの好青年と、未だに清い付き合い止まりであることは確認済みだが、手を握り、こめかみに軽いくちづけを落としたりと、愛情表現に忙しい久遠の態度を、雫も七月も日常の一端に過ぎないと侮っていた。
「……ところで、雫、何かあった?」
「えっ? 何……?」
雫とじゃれ合っていた久遠が、ふと顎を引いた。若くして鬼籍に入ったため、写真でしか見たことのない母親似の、愛嬌のある二重の眸の奥に、父親譲りの鋭さが宿る。
「先週以来、とびきり可愛くなっているからさ」
「そ、き……気のせいだよ。久遠だって格好いいじゃないか」
雫が婚前診断書と閨房術について秘匿するのを確認した七月は、後部座席で繰り広げられる桃色の会話に、イレギュラーなサインがないか耳を澄ます。
「そう? ならいいんだけれど。何かに悩んでいるのなら、相談に乗るよ。何もないのなら、今日は夕方まできみを独占できるね」
機嫌よく言い放つ久遠は、支配者としての揺るぎない自信に溢れた、将来を約束されるアルファに相応しい。半分ベータの遺伝子を持つ突然変異のアルファである七月と違い、久遠は最もアルファらしいアルファと言えた。ひとつひとつのパーツが驚くほど端正で、気のない服装をしていても、ちょっとした標識並みに目立つ。重ねて、久遠自身は容姿や品行を褒められ慣れているため、プレッシャーを感じたり、揺れることは存外、少なかった。雫というオメガの婚約者がいることも、学内はもちろん、社内外で会う者らにまで周知済みだったが、それでも色目を使ってくる者が後を絶たない。
「そうだ、久遠。学食に唐揚げの黒酢あんかけ定食のメニューが増えたの、知ってる?」
「知らなかった。美味しそうだ」
「今日、食べてみようと思っているんだ」
「僕も今日は、それを試してみようかな」
巨大企業体の次期総裁候補が、なぜ老舗であることに頼るばかりの、音瀬商事の嫡子で、しかも希少な男性オメガである雫の車に同乗することになったのか。きっかけは、十四年前に起きた雫の誘拐未遂事件に遡る。
幼稚舎の正門前で、当時送迎を担当していた柏木と、高等部に籍を置いていた七月を待っていた、一年生の雫に、道を尋ねるふりをして近づいた男が、ランドセルごと抱え上げ、逃走をはかったのだ。たまたま居合わせた久遠が男にタックルをかけてくれたおかげで大事には至らなかったが、以来、仲良くなった久遠が、雫を守るように学内でも隣りにいるのが当然になり、やがて帰宅するルートの幾つかが同じであることがわかると、自然の成り行きで音瀬家の車に同乗するようになった。
オメガと判明した雫への嫌がらせが頻発した時も、久遠が庇い、追い払ってくれることが多く、皆無ではないものの、目立ったものや陰険なものは減ったようだ。その点は、七月も久遠を高く評価していた。
「本日は四時十五分頃にお迎えにあがります」
大学の正門をくぐり、いつもの駐車スペースに車を停めると、真夏の熱を蓄積しつつあるアスファルトに久遠と雫は降り立った。ふたりが揃うのを見届け、車外から施錠した七月が今日の予定を伝えると、久遠はふわりと笑ってみせた。
「いつもすまない、七月。学内でのことは、僕に任せて」
「はい。頼りにさせていただきます、久遠さま」
久遠とも、雫とも、万一の事態を想定し、七月の携帯端末と個別に連絡先を交換してある。
「じゃ、いこうか。雫」
Tシャツの上にざっくりしたアイボリーのサマーニットを着た久遠が、雫の手を握る。
「うん。またね、七月」
ふたりに会釈で答えた七月は、やがて踵を返すと、大学院の薬学棟のある方向へと、ひとり歩いていった。
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