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第5話 悲願(1/2)

「今日も無事に登校されました。はい。……はい。失礼いたします」  歩きながら泰衡へ定時報告を入れた七月は、薬学研究棟の中にある斎賀亘准教授のラボの扉の前で立ち止まり、携帯端末を仕舞うと自分の手のひらを見た。昨夜、雫に着衣越しに触れた感覚が生々しく残存している。IDを翳しラボの中へ足を踏み入れた七月は、泰衡に閨房術を切り出された日のことを思い出していた。 『あれに対して、兄弟の情があると? 笑止だな』  七月の逡巡を看破した泰衡の観察眼は、正確無比だった。 『お前があれをどう思っているか、その態度で隠しおおせているつもりなら、慢心と言わざるを得んな。あれは生まれてくることで、お前の母親を殺め、お前の父をも死に追いやった疫病神だぞ。それにお前は固執している。哀れだな』  雫に閨での振る舞いを仕込めと言われた時、気でも狂ったのかと疑った。  しかし、話を聞くうちに認識不足を改めざるを得なくなるほど、泰衡の申し出は精緻で狡猾だった。 『思うがままに嬲るもよし。奪うもよし。間違いを犯したところで、種無しとの過ちでは子を孕む余地もなかろう。だから、お前が適任なのだ、七月』  ——やってみたくないか?  唆された声にその時、何と返答したのか、七月は思い出すことができなかった。 『出来損ないとはいえ、お前もアルファだ。いつまでもオメガの世話係でいるのは耐え難かろう。密かに、だが消えないように刻み込め。どんな手でも使うがいい。あれを発情させろ。取り澄ました西園寺家の若造が手に入れるのは、お前の手垢の付いたあれだ。好きにしろ。わたしが許す。この、わたしがな』  七月といる時、泰衡は滅多に雫の名を呼ばない。底冷えのする眼差しで七月を説き伏せる間も、鼠をいたぶる猫のような顔をしていた。 『おれは、「ふしだら」ですか……?』  幼稚舎に通いはじめた矢先、雫が泰衡に問うた言葉だ。  生まれた年と、その翌年に、相次いで両親を亡くした雫を待っていたのは、幼稚舎内での級友らの心無い揶揄の言葉だった。「ふしだら」で「いやらしい」親を持つ子ども。言葉の意味を正確に理解できなくとも、どんな意図で放たれたのか、幼いながら鋭い感受性で察知した雫は、反発した。  結果、言い合いになり、先に手を出す形で雫が級友を突き飛ばし、軽い怪我を負わせた。泰衡はそんな雫を厳しく叱責した末に、拒絶した。 『そんなことぐらい自分で判断できないのか』  当時の泰衡が雫をどう扱っていたか、知る七月は、甘えや誤魔化しを一切排除した峻厳な態度で立派なアルファを育て上げようとする泰衡の思想こそ、理性で理解していたが、涙を堪えながら震える雫には、同情を禁じ得なかった。藁にも縋る気持ちで発した問いを真正面から切り捨てられ、癇癪任せに罵られ、それでも雫は耐えていた。その態度が気に入らなかったのか、それとも単に虫の居所が悪かったのか、泰衡はその夜、雫の乳母代わりをしていた七月のメンター役でもあるひとりのアルファを、監督不行き届きを理由に解雇し、ベルトで七月の背中を血が滲むまで打ち据えた。  自分の言動が原因で、異父兄が打擲されるのを目の当たりにした雫は、何もできずにただ怯え、震えていた。その夜、驟雨が走り、夕食の席に現れずに消えた雫を、邸内の者らが総出で探し回る中、明け方、忘れかけられた屋根裏の小部屋の隅に蹲っていたところを、七月に発見された過去がある。  謝り続ける小さな身体を抱きしめ、七月は雫を枷に嵌めた。 『何度でもお逃げください。七月が必ず、迎えにまいりますから……』  その時ほど胸が熱く滾ったことはない。 『ごめん、なさ……っ、ごめんな、さい……っ、七月……っ』  嗚咽とともに甘えてくる雫に隷属の言葉を吐くことで得られた充足感は、その後も従者として生きるしかない七月を支える礎になった。  あの、声。  滲んだ眸。  熱い呼気。  触れた瞬間、心が震えた。これを独占できるなら、魂を投げ打つことすら厭わないだろう。まだ第二種性別検査がおこなわれる前で、雫を含む周囲の誰もが、雫のことを、いずれアルファになるはずだと決めて接していた頃のことだった。泰衡の厳格すぎる教育方針に従いきれず、多くの使用人らが辞めていったのもこの頃だ。七月とともに沈黙を守り仕事に従事し続けた者らは、ことごとく泰衡に忠誠を誓う犬となり、第二種性別検査で雫にオメガ判定が出ると、彼らの態度は、さらに硬化した。

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