11 / 118

第5話 悲願(2/2)

 そんな閉鎖的で排他的で秘密主義的な環境で育ってゆかねばならなかった雫を、あらゆる方策を講じ、七月は表向き、守ってきた。裏を返せば、雫が七月の存在を替えのきかない貴重なものだと信じ、依存するよう仕向けたことに、露ほどの反省もない。雫が憧憬を抱く良い異父兄であり、より良い従者であり続けることこそが、七月の邪な執着の発露だと看破したのは、泰衡ただひとりだった。  幼稚舎で乱暴を働いた一件が落着すると、雫は素行をまったく改め、七月に一切、隠しごとをしなくなった。時に明け透けと言っていいほどに何ごとも包み隠さず仔細に日々報告し、ことの大小を問わず問題が発生すれば、手に負えなくなる前に必ず相談と指示を仰ぐ。雫は七月に盲従し、信頼を寄せることに一ミリの疑いも持たないまま、今日まできた。 (あと、少しだ……)  浮気相手のベータの父親の元に幼子だった七月を置き去りにし、音瀬家へ里帰りした母の志寿も、命と引き換えに雫を産んだ志寿の死を悼むあまり、絶望し、マンションのバルコニーから身を投げて自死した父も、七月を見捨てて逝ってしまった。愛し方すら覚束ないまま、誰にもぶつけられない寂しさを飼い殺しに生きることを強いられてきた七月にとって、愛とは支配と服従を伴うものだった。  ラボの入り口で白衣を纏った七月は、さらにその中に隔離されるようにして存在する陰圧室に入った。機材の出すもどかしげな熱と、実験空間の独特の匂いに全身を包まれると、思考のモードが切り替わり、束の間だけ涼風七月という歪んだ個性を制御できるようになる。  音瀬家に奉公し、二十年余り。人生の多くの時間を費やし、雫という人間を鍛え、削り、魂を込めて磨き上げてきた。雫の嫁ぎ先の西園寺家からは、婚姻にあたり七月の同伴は不要であるとの通達があったと、泰衡から聞かされている。そこに久遠の意志が介在するかまでは確認できなかったが、いずれ人生の大半を注ぎ込んできた雫との、別離の時がくることは決まっていた。夏至を過ぎた日照時間のように目減りしてゆく限られた時間の中で、七月が雫にできることもまた、限られてきている。泰衡から提案された閨房術は、雫に七月という抜けない碇を打ち込む、またとない機会だった。そこまで計算を尽くし、泰衡は七月と雫を支配しようとしている。  どんなオメガのうなじに噛みついても、すぐに更地に戻ってしまう。七月には子をなす機能が欠けており、おまけに番いをつくれない体質だった。「子孫ヲ残ス術ナシ」と、成人し、泰衡に遊蕩癖を咎められた時に判明していた。  誰かの処女地を奪うことも、番いをつくることも、子を孕ませることも不可能な、見せかけだけのアルファ。その秘密を知るのは、今のところ七月と泰衡だけだ。だが、異父弟の雫にその事実を告げる未来がきたとしても、見限られることはないだろう、と本能に近い場所が告げていた。  音瀬家からの独立と、雫の心の所有者になること。  世界にたったふたつだけ、それが、七月の悲願だった。

ともだちにシェアしよう!