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第6話 見果てぬ夢(1/2)
首筋の冷たい熱に、久遠はちょっと肩を竦めた。
七月と喋ると、なぜか時々、冷やりとする。いつもなら、ただの思い過ごしだと解釈するが、今日は明らかに違った。
幼い頃から、久遠は自分が周囲に与えてしまうちょっとした影響力に自覚的だった。雫もまたオメガながら、久遠と同じかそれ以上の場数を踏んできたせいで、肝の座り方が一般の人間とは違う。そんな雫から、今日はかぎ慣れない匂いがする。
探りを入れてみたが、手がかりもない。悪い予感は的中するもので、雫と校内を歩いていると、やけに敵対的な視線が多い。まるで幼稚舎に入って間もない頃、雫と初めて言葉を交わした時のようだった。
「雫。ちょっと話してくるから、待ってて」
「わかった」
雫にはそれで通じる。久遠は幼稚舎時代からの持ち上がり組の中でも、特に普段から親しくしている集団のリーダーに声をかけた。
「おはよう。何かあった?」
雫は廊下の隅で大人しくしている。経験上、こういう時は無理に動かない方がいいとわかっているのだ。
「西園寺くん。何かっていうか、噂が出ているんだよ」
久遠の声に応えた青年は戸惑いを露わにした。幼稚舎に上がってすぐの頃、雫を罵倒し突き飛ばされた元級友は、久遠の取りなしもあり態度を改め転向したが、あの事件の翌日以降、雫の態度に心を打たれた者は、誰も顔や態度には出さなかったが、少なくない。だから二重の意味で、雫には久遠が付いているべきだった。
「噂?」
「出どころが出どころなので、皆が騒いでいるんだ」
「どんな噂?」
世界企業へと発展した西園寺グループをはじめとする大企業の嫡子が多く通うことで有名な芝ヶ丘総合国立大学は、多額の寄付をする持ち上がりの内部組と、自分の実力を恃みに進学してきた少数の外部組に分かれ、一線を画している。外部組は、献金の見返りに様々な優遇措置を受ける内部組のことを、最初は感情的に見過ごせない者も多い。だが、入学直後の小競り合いを経て、教授らの扱いが、ずっと平等で公平だとわかると、多くは納得と諦観を織り交ぜた無気力な静観を決め込み、やがて就職時期が近づくほど、内部進学組におもねる傾向にある。良くも悪くもぬるま湯だった環境に、今日、突然、滝が降り注いだようなありさまだった。
久遠の問いに、青年はわずかに言い淀んだが、すぐに情報を流してくれた。
「きみと音瀬くんが……その、結婚して二年以内に子どもができなければ、音瀬くん以外の誰か……子どもを産めるオメガか女性のアルファを外に囲う、って話が出ているんだ。西園寺くんは、承知していないの?」
「いや、初耳だな。根拠のない話だけれど、いったいどこから?」
「総務部らしい」
「へぇ。でもどうして……」
会話を続けながら、父の差し金だと久遠は直感した。こんな手の込んだ嫌がらせをする人間に、他に心当たりがない。胸の奥に封じた古傷が疼く。幼稚舎時代、雫が誘拐未遂事件に遭った翌日も、乱暴されたのではないかと口さがない噂が嵐のように広まってしまったことがある。その時よりも年を経た分、陰湿な空気が久遠の神経を逆撫でにした。
「西園寺くんが否定するのなら、きっとただの噂なんだろうね。迷惑な話さ。でも、きみの口から本当のことが聞けて良かったよ。ぼくらも安心した」
「誰も雫の魅力にはかなわないし、僕は雫以外とどうこうなる気はないからね」
軽く惚気て苦笑すると、相手もほっとしたようだった。久遠が明言した以上、放っておいてもやがて噂は覆るだろう。青年に礼を言い、雫のもとへ急いで戻った久遠は、涼しい顔こそ崩さなかったが、内心では腸が煮えくり返っていた。
「雫、原因がわかった」
「そっか。大丈夫か? 久遠。顔色が……」
雫が気遣ってくれるから、甘えてしまいがちな本音を堪える。だが、口から漏れ出る言葉は、苛立ちを抑えられなかった。
「悪いが猛烈に怒りたい気分だよ。この件についてはきみの耳にも入れたくない。きっと父の仕業だ。総務部が出どころの噂なんて……くそっ、すまない、雫」
「おれなら平気だよ」
即答する雫に「何を根拠に」と反論したくなったが、久遠は言葉を飲み込んだ。雫の声がわずかに震えている。この噂を流した手合いは、ふたりの間に楔を打ち込もうとしている。その手に乗るのは下策だ。一方で、噂は流した者の意図に沿い、久遠の心を揺るがした。
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