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第6話 見果てぬ夢(2/2)

(僕と雫では、駄目なのだろうか……?) 「雫……っ」 「ちょっ……」  公衆の面前にもかかわらず、久遠は雫を抱き寄せた。頭ひとつ低いところにある雫の朽葉色の髪を梳く。一見折れそうに細いが、中にしなやかなバネを秘めるこの存在を、きっと守ってみせる、と心中で言い聞かせる一方で、雫の匂いがいつもと違うのは、不安にさせているからだろうか、と不甲斐なさに泣きたくなった。 「久遠……?」  こんな場所で、と拒むことだってできるのに、雫は久遠の背中に遠慮がちに手を添え、宥めるように撫でた。過去にも雫は、久遠の父である恒彦の行き過ぎた試し癖を、ずっと許してきていた。物心がつく前に両親と死別した雫と違い、久遠の片親は、まだ健在だ。父親との対立や葛藤の余地が残されている、恵まれた環境であることを、久遠自身、自覚していた。過酷な父の要求を呑み、時には撥ねつけ、期待以上の成果を出し、折れずにやってこれたのは、いつも味方でいてくれる雫のおかげだ。 「噂のことなんて何も言いたくない。でも、黙っていて別のところから、きみの耳に入るのは絶対に嫌だ。父の試し癖にいつまでも付き合う気はないけれど、今の僕にできるのは、あの人を超えるべく足掻くことだけだ」 「おれは……お義父さまと久遠に喧嘩して欲しくないよ。気が合わないのなら、無理に仲良くしろとは言わないけれど」 「反論できない噂を流して、きみを傷つけようとしているのに? 僕は許容できない。卑怯じゃないか。でも、こんなことで潰れたりするものか」 「どんな噂か、訊いても……?」  傷を受ける覚悟ができた雫が久遠に問う。  久遠は言い淀んだあとで、耳元に、衝撃を極限まで弱めるつもりで、誰にも聞こえないように囁いた。 「西園寺家が……婚姻後、二年以内に僕らの間に子どもができなかった場合、外に妾を置くことを検討している。無論、僕の意志は無視でだ」  言い終えた途端、雫の肩が静かに揺れた。 「ごめん、おれが不甲斐ないから……」 「謝らないでくれ。雫のせいじゃない」  久遠は祈るように囁いた。交際後、ほどなくしてオメガであることが判明した雫は、きっと久遠の知らないところで蔑まれたり、批判されることもあったはずだ。久遠の手が届く場所、目の届く範囲では守ってきたつもりだが、知らないところでいったいどれほどの試練を強いられてきたか。それを雫は一度たりとも声高に言わない。傷つくたびに未熟さを恥じ、負った傷を隠そうとはするが、それを理由に久遠から離れようとはしなかった。  それが雫の強さだと、久遠は信じている。 「僕はきみ以外の誰かとどうこうなんてごめんだ。おぞましいことだ」  大切だからこそ、手を繋いでも、抱きしめても、キスをしても、最後まではしないでいようと決めた。婚姻届が無事に受理されるまで、何が起きるかわからないからだ。何が起きても、雫が取れる選択肢をひとつでも多く残しておく。誘惑に負けそうになるたびに、雫の未来を案じ、処女地を征服したい我欲に枷を穿ち、封じる。それが久遠なりの愛情表現だった。 「おれなら平気。それより、証拠がないんだから、お義父さまばかり悪く言うのは良くない。もしも万が一、お義父さまのご意向だったとしても、何かお考えがおありなのかもしれないし」 「雫……」  発情期がこないことが伏せられているだけ、ましだと考えるべきだろうか。温室状態を保とうと躍起になるほど、あらぬ方向から飛んできた悪意を防ぎきれなかった時のダメージが大きい。オメガに対する悪感情は、久遠の認識よりずっと大きく、数が多い。そのすべてから雫を守り切ることは現状、難しかった。  それでも雫は前を向き、久遠と歩む未来を語る。 「きっといつか、わかってくださる。だから」  希望を語る時、雫は震える。分不相応だと思っているのかもしれない。久遠が背中に爪を立てると、雫はちょっと驚き、緊張したが、あやすように背中を撫でて、応えてくれた。 「ゼミに遅れてしまう。急ごう」  好奇と批判の視線を浴びながら、雫は前を向き、久遠の手を引く。そのうなじに吸い寄せられるように、久遠は諾々と雫の手を握った。まるで幼子に戻ったような気がする。 (いつか、きみを……)  雫に聞こえない声で呟く。  このしなやかな存在を守るために何かを差し出せと言われた時、躊躇わずに身を切れる人間でありたい。雫が繋いでくれた手を、久遠は甘えるように強く握り返した。  雫を幸せにするのが、久遠の見果てぬ夢だ。

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