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第8話 名前(*)(1/4)

「嫌、ではありませんか……?」 「大、丈夫……っん」  衣擦れの合間に頷くと、そこから先に言葉はなかった。  ひとつ、またひとつ。何かを確認されるように、七月に身体を探られる。目的も定かでなく、触れてくる熱量のある手のひらへの抵抗感を、雫は努めて脳裏から追い払おうとした。  結婚したら、セックスをする。それが普通なのに、雫は今まで具体的な振る舞いについて、あまり想像せずにいた。抱き合い、それなりのことをするという知識はあったが、正直、きっと互いに良い気持ちになるのだろう、というおぼろげな予感しかしなかった。  七月に触れられるようになってから、雫は少しだけ変わった。久遠との契りの時を、想像するようになったのだ。同じ熱で触れ返し、その行為が何かを生むかもしれない予感。今は恥ずかしながら、久遠に触れられたいし、触れたい、という欲望と呼ぶべき情動が芽生えつつある。それが久遠の側にもあれば嬉しいし、何かを共有できるのなら、これ以上の幸せは想像がつかなかった。 「っ……ん、っ……」  声を堪えようとすると、七月の親指が口内に侵入した。左の犬歯をぐり、と押され、七月の味を舌が覚える。 「アルファにとって、オメガの声ほど魅惑的なものはありません。あなたが声を上げるたび、あるいは嗜虐的な気持ちになる者もいるでしょう。ですから決して、雫さま……久遠さま以外には、声も恥じらいも抗う姿も、晒してはいけません。処女地のうなじを守るためにも」 「んっ、んん……っ」  数度、小さく頷くと、七月の親指は簡単に外れた。ぼんやり濁った視界に、黒いレースの繊細な首輪が映る。七月の前髪がはらりと一房、額に落ちかかり、さほど目的もなく触れていた指先が、胸部の尖りに引っかかる。 「っ……」  かろうじて声を堪えられ、安堵する間もなく、胸にふたつあるささやかな頂きに執着され、やがて物哀しげな焦燥感に似た感覚が芽生える。まるで心中を透かし見るような七月の表情に、気持ちが高まるのを抑えられない。愛撫と呼んでも差し支えない行為がはじまり、たまらない感情が湧き出す。 「ぁぅ……っ」  甘苦い痛みに似たものが、雫の中で疼きはじめる。雫の声を認識すると、七月の目はわずかに色を帯びた。 「ぁぁっ……!」  喉奥で呻いた時、七月が叱るように尖りをつまみ上げた。 「久遠、が……っ、こんな、こと……っ」  たまらず上げてしまった悲鳴を封じようとして唇を噛む。恥ずかしくて、情けなくて、耐えようとするほど努力のすべてが無為に帰す。淫らに感じてしまう自分を受け入れ難く、雫が抵抗を見せると、七月が囁く。 「久遠さまは、このようなことはなさらない、とお思いですか……?」  挑むように投げられた問いに笑みが混じっているように感じるのは、被害妄想に違いない。なのに、否定するほど、こうして欲しいと脳裏で期待する雫を暴かれる。 「とてもあなたらしい考え方ですが、あの方はおそらく、私とそう変わらないことをするはずです」  頭を左右に振る雫の耳元で、七月は少し揶揄する口調で意地悪を言う。 「私は指でしかいたしませんが、久遠さまはここを口に含むことすら、なさるでしょう」 「ぁ……そ、なっ……ぁっ」  久遠の名誉のためにも、否定すべきだった。なのに、促されてする想像は一瞬でも甘く、雫に浸潤してゆく。穢したくない唯一の愛しい人を七月と置き換えるだけでなく、たとえばこれが久遠だったら、と空想しはじめてしまう。 「ぁ、ゃぁっ……ぁぅ、ちが、ぁ……っ、だ、っだめ、こんな……っ」  拒絶の言葉を紡ぐと、七月の指は尖りをそっと解放する。 「お嫌ですか……?」  わかっていながらやっているのだと、何度か繰り返された末に雫は悟った。して欲しいことを素直に口に出すべき時が訪れたのだと、七月が誘導しようとしてくれている。が、声にしてねだるのは、耐え難い羞恥を伴った。 「ぃゃ、ちが、す、好き……っ」  言った途端に頬が発火する。自分でも、上気した情けない顔をしているのがわかるが、涙で潤んだ視界に七月を捉えると、もう拒めなかった。 「きら、じゃな……っ、ゃ……っ、め、な、で……っ」 「……かしこまりました」  哀願すると軽くおだてられ、憎らしいのに甘い衝動が湧き出す。次第に身体が言うことをきかず、七月にねだるように胸部を突き出してしまう。

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