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第8話 名前(*)(2/4)
「お上手ですよ、雫さま」
七月はピアノでも教えるように優しい。喘ぐと刺激が増し、弄られている尖りが色を濃くする。ぼやけた視界に七月の鋭利な視線が刺さる。
「ぁ、んゃ、ぁ……っ、ゅ……びも、我慢、で、きな……っ」
身体をくねらせ、いつしか上掛けを握っていたはずの指は、シーツを掴んでいた。
「おねだりを覚えるのはいいことです。美しくて、我を忘れそうになる」
「ゃ、もっ……と、はゃ……っ、して……っ」
一度、折れてしまうと、我が儘がひっきりなしに出た。褒められるたびに抵抗がほろほろと柔らかく崩れ、こうして乱れてもいいのだと認識してしまうと、ひっきりなしにねだる真似をする。
「願……ぃ、して、欲し……っぁ、な、七……っ」
七月——と名を呼びかけた瞬間、それまで胸の尖りを離れていた指先が、鍵をかけるように雫の唇に接着した。
「いけません、雫さま」
「っ……?」
真摯な咎める声で、七月が止めた。何を間違ったかすらわからずに息を乱している雫へ、通る声で言い含める。
「私でなく、あの方を」
「ぁ……、ぁ……?」
あの、かた、あのかた、あの方……言葉の意味がわからず、戸惑いながら呼吸を乱す雫に、七月は、普段なら決して呼び捨てにしない名を優しく呼んだ。
「どうか「久遠」と……」
「っ……」
突然、降ってきた名前に雫が息を呑み黙ると、限界が近いというのに、七月もまた愛撫を止めてしまう。
「あなたは、あの方を呼ぶのです。「久遠」と」
「ぅ……」
最初の一語が出なかった。
普段は決して呼び捨てにしない、敬意を持って呼ばれて然るべき名前。久遠のいないベッドの上で、久遠を想い、欲し、乱れ、昂ぶった身体でその名を呼んで、求めろと要求されている。それがどういうことなのか、七月は理解している顔だ。心の中の聖域を明け渡す行為だと、わかっていながら強いていた。
簡単には決められないと知りながら、雫がいくらねだっても、久遠の名前を口にしない限り、これ以上は進まなくなることを七月は示した。
「で、でき、な……っ」
泣きつくと、突き放される。
「では、このまま……?」
「ゃ……っ、ゃだ、っな——……っ!」
七月は、久遠以外の者の名前を口にすることを禁じた。容赦なく雫を見据える眸は、昏く光っている。それでも、七月の捲られた袖を引き掴み、雫は喘ぎ、懇願し、哀訴したが、何の足しにもならなかった。
「ぁ、ぁぁ……っ、願……っ、し、して……っ、許し、て……っ」
気が狂ってしまう。時間の経過を数える努力も忘れて汗まみれでのたうち回り煩悶する雫を、七月は精緻に時を見極める様子で、ただ射るばかりだ。決して譲らぬ態度に、雫は絶望し、揺れ、心の中にある是非を定める天秤が、激しく上下する。憎しみ、後悔、恨み、察してもらえない寂しさや苛立ちが、足りない快楽となり雫を打ちのめしても、容赦される気配もなかった。
このまま果てたいという欲求を引き延ばされることに、的外れな怒りさえ覚え、虚しく失望したあとで、最後に涙ながら、雫はその名を口にしようとして唇を震わせる。
「っ……は、ぁ、はぁ……っ」
それでもまだ他に、無限に続く責め苦を逃れる術があるのではないかと思ってしまう。
七月を呼んではいけないのに、久遠を呼ぶだなんて、はしたない欲望を認める行為になってしまいはしまいか。脳裏で描いてきた淡い期待と性衝動の歪さを、こんな形で七月に晒さねばならないとは。
耐えられないと激しく思い、小さく抵抗を返した雫だったが、ついにもう手段がないとわかると、失意の果てに、とうとうその名の一部を口に出した。
「く……ぉ、っ……っ」
音にした瞬間、恥辱だけでなく、激しい罪悪感が雫をもみくちゃにした。
「はい、雫さま」
だが、七月は正解を選び取った雫に笑みを浮かべ、黒いレースの首輪を装着したまま頷いた。七月にそうされると、雫は恍惚となり、まるで共犯者であるように錯覚した。
「もう一度、お呼びいただけますか……?」
「んっ、く、く、お……っ」
「はい」
「くお……っ」
「そうです、雫さま」
焦らすように接着したままだった七月の指が、そっと尖りを押しつぶす。
「ぁっ……」
「お上手です」
自尊心をくすぐる褒め方をする一方、雫の折れた矜持を慰める言葉も吐く。柔らかな笑みを浮かべた七月が、ご褒美と言わんばかりの力加減でささやかに尖りをなぞると、酔いそうになる自分がいて、雫は押し流されまいと最後の抵抗を試みる。
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