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第10話 西園寺家(1/3)

「お義父さま、今週もお世話になります」  土曜日の午後、七月に連れられ西園寺邸へ赴いた雫は、まず書斎にいる久遠の父親、西園寺恒彦(さいおんじつねひこ)に挨拶をした。恒彦はロマンスグレーの長髪を首の後ろで緩やかに束ね、久遠に似たところのある漆黒の眸で雫を一瞥した。 「……息子ときみの噂が聞こえてきた。口さがないことだが、人の口にのぼるのも七十五日と言う。それまで我慢することだ」 「お気遣いありがとうございます、お義父さま」  妾の噂を耳に入れた泰衡は烈火の如く怒ったが、西園寺側が公式に何か言ってこない限りは、意地でも当初の予定どおりことを進めると息巻いていた。 「せっかくきたのだ。ゆっくりしていくといい」 「はい。お言葉に甘えさせていただきます」  ろくに目を合わせようともしない恒彦の言葉の裏に秘められた意図を汲み、今日も折りを見て時間どおりに帰ろう、と雫は決める。必要最小限の会話に、隣りの久遠がもう十分だろうと雫の手を引いた。 「雫、いこう。父上、失礼いたします」 「ああ」  噂の件で、久遠の恒彦への態度が硬化したことを知り、雫は胸が疼いた。恒彦にしてみれば、意図的に噂を流すことで、西園寺家の本音が伝われば良し、さらに意を汲んだ音瀬家が、撤退の決断をしてくれれば、御の字というところだろう、と泰衡は言っていた。あくまで音瀬家の意志に変わりがないことを示すため、雫は細かい事情に頓着しないふりをする必要があった。わかっていてももどかしく、久遠の少し冷たい手を握り返す。  久遠は雫を自室の前まで連れてくると、驚かせたいことがある、と言い、雫に部屋の扉を開けさせた。 「うわ……っ」  白で統一された室内に、アクセントとなる雫の髪色を思わせる朽葉色のファブリックがよく映える。冷房は適温で、細く絞ったモダンジャズの音とともに、数種類の花の精油がブレンドされたアロマが炊かれていた。見上げると、天井に少し分厚いシーリングライトが取り付けられ、自然光のふんだんに入る部屋の壁や床に人工的な光を落としている。 「座って、雫。一緒に映画でも観よう」  サンルームのガラス越しに西日が入る窓を右手に見ながら、二人掛けのソファにふたり揃って身を委ねる。久遠が宙に向かって何かを短く呟くと、遮光カーテンが自動で閉まり、光の粒が踊っていた正面の白い壁に、プロジェクターの四角い灯りが映し出された。次いで外国映画の配給会社のロゴが、大きく壁に出る。 「すごい……これどうしたの? 久遠」 「きみと特等席に座りたくてさ。ちょっと工夫したんだ」  手を繋ぐのは日常茶飯事だったが、暗闇でされると込み上げてくるものがある。久遠なりに噂で疲弊しがちな雫を気分転換させようとしてくれたのだろう。 「ありがとう、久遠」  心配をかけているな、と省みる一方、久遠の気持ちが嬉しかった。久遠はちょっとふざけた様子でソファの背もたれに身体を預けた。 「これで誰にも邪魔されずに、雫といちゃつきながら映画が観られる。最高だろ?」 「ほんとだ、最高だね」  最近配信されたばかりのアクション映画のオープニングが流れ出す。その気になれば、ポップコーンもドリンクも、もしかするとピザなんかも持ち込み放題で、内緒話も周囲に気兼ねなくできる。久遠と言い合いながら、雫は久しぶりにわくわくした。 「本当は、きみが色っぽくなったから、思う存分、眺めたくなったんだ」  至近距離で久遠に囁かれ、ドキリとする。 「そう、かな……? よくわからないけれど……」 (映画じゃなくて、おれを?)  いつもなら軽口のひとつふたつ出るはずなのに、雫は喘ぐように言い訳をするしかない。七月と閨房術をおこなうようになり、数週間。雫の身体は、発情期を迎える兆しすらなかった。もどかしさと後ろめたさに焦れながら、雫は思わず視線を伏せる。 「心当たりない? じゃ、心境の変化かな。ずいぶん短期間に変わったけれど」 「そう、だろうか……?」  知らないふりをしながら、久遠へ視線を上げられない。  先日、七月に命じられ、雫は初めて自慰を試みた。翌朝、音瀬邸へ帰ってきた七月と再会しても、恥ずかしさから上手く目を合わせられなかった雫は、その夜、首尾を報告すると、どんな気持ちでどうやって達したか、乳首を弄られながら再現させられた。至る寸前、七月の声が蘇ったことだけはどうにか隠し通したが、乳首だけで初めて達したのはその夜だ。以来、箍が外れたように「いきたい」「いかせて」とせがむようになった。

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