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第11話 羞恥心(1/3)

 車の中で、加速に身を任せた雫がため息をつくと、七月がミラー越しに視線を寄越した。 「ご気分が悪くなったら、仰ってくださいね」 「うん……。でも、きっともう、大丈夫だ。迷惑をかけてすまなかった、七月」 「私の最優先事項は、雫さまですから」  短くそう告げた七月は、そのまま聞き役に回った。  泰衡に報告しなければならない事態が起きた。七月を守るために、きちんと説明する義務が雫にはある。なぜこんなことになったのか、先ほどの混乱をどう話すべきか迷った雫は、自慰の際に七月の声を想像したことだけは隠し通し、他の一切を詳らかにすることを選んだ。 「つまり……、私や久遠さまのことを考えて、変調をきたした、と……?」  困惑がちに雫の言葉から要旨を掴んだ七月に、雫は両手を合わせて詫びた。 「ごめん……っ! 言い訳になるけれど……最初は全然そんなつもりはなかったんだ……っ」  オメガと罵られる理由を、雫は今になって理解しはじめる。実存するかどうかもわからないアルファの痴態を想像するなど、失礼極まりないことだった。 「お、おれは、淫らな人間になってしまった……きみらの、その、す、姿を想像したり、して……それで、自分を安心させようとして……っ、こんなの、最低だ……」  きっと七月も呆れただろう。その癖、婚約者にちょっと距離を詰められただけで、動揺する。泰衡の策がまるで良い方向へ働いていないことを示す結果に、雫は情けなく、落ち込んでいた。  だが、信号待ちで停車した車内の重い空気の中、ふと七月が笑む気配がした。 「っ……」  死刑宣告を待つ囚人のようにうなだれていた雫は、七月の失笑を買ったのだと、深く傷ついた。 「さぞ、呆れたことだろう……。おれは、おかしくなってしまった……。外で誰かといても、きみと夜にしたことの名残りが頭の隅にこびりついて離れない。それどころか、今日、みたいに……っ。お願いだ、七月。久遠には、黙っていてくれ……せめて、ちゃんと発情するまで……」  雫の第二種性別がオメガだと判明すると、誰もが異端者を見る目つきをするようになった。無垢だった雫は周囲の変化に哀しみと反発を覚えたが、オメガの行動ひとつで、アルファが被る不利益を目の当たりに知った今は、彼らの過剰な警戒心も無理からぬことだとわかる。 「二度と……二度としない。誓う。だから……っ」  雫は、アルファを見て、してしまった空想を、自らに禁じようとした。七月を失望させるのは、胸が潰れるほど恥ずかしく、膝の上で握った両手の爪が手のひらに食い込む痛みすら、感じ取れないほどだった。 「そうではないのです」  俯き、耳を朱く染めた雫に、七月は頭をひと振りした。 「あなたが、あまりに幼いので、つい」  七月の言葉には愛情が込められていたが、雫は屈辱を覚えた。 「おれは……っ」 (おれは、駄目な、オメガだ……)  だが、過度な自己批判は七月に禁じられている。オメガでありながら音瀬家の嫡男という立場にいる以上、傅いている者たちを貶す行為に該当するおこないは、厳しく戒められていた。アルファの矜持を折ってはならないのは無論だが、ベータに対しても、七月は厳格にそのルールを適応した。 「雫さま。幼いと申しましたのは……あなたの無垢と素直さを、褒めのです。言葉が足りず、不快な想いをさせてしまったのなら、撤回いたしますが、決して揶揄うつもりは」 「っ……でも、おれは……っ」  ほとんど泣き出しそうな雫は、必死に涙を堪え、震える唇を噛んだ。今回の西園寺家への訪問は、閨房術の成果が出れば、と望んで挑んだものだった。ところが、蓋を開けてみれば、未成熟なオメガがアルファの空気にあてられ、過敏になり体調を崩すだけだった。 「発情しないことを差し引いても、あなたは魅力的です、雫さま。久遠さまが夢中になるのもわかります」  嘘だ、と撥ね付けてしまいたい。  七月が言葉を弄するほど、泣くまいとする雫は涙で視界を滲ませる。 (……消えてしまいたい)  正直なところ、雫は酷く落ち込んでいた。 「はっきり言ってくれ、七月……っ。失格なのだろう……? おれはアルファになれず、オメガとしてすら、使えない半人前以下の……」  音瀬の名に恥じない振る舞いを、ずっと自らに課してきた。それがハリボテの虚栄でも、ないよりはずっとマシだった。だが結局のところ、無駄な努力だったのだ。未成熟なオメガ風情に成し遂げられることなど何もない。第二種性別がオメガであるのを理由に、悲劇に彩られた人生を送ることは、決して潔くないと、雫は必死に抵抗してきた。だが、すべては無駄な努力なのかもしれない。

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