26 / 118
第11話 羞恥心(2/3)
「雫さま」
揺れる雫に、七月は硬い声を出した。
「あなたは音瀬の嫡子です。それをお忘れなく」
「わ、か……っ」
本当にわかっているのだろうか。もう諦めてしまいたい。楽になりたいと心が張り裂けそうに訴えているのに、頑張る理由がどこにあるだろう。七月に指摘されると、本当に堪える。七月には、半分、音瀬の血が入っているだけでなく、優秀なアルファでもあるのだ。出自のせいで、雫よりずっと優れた存在なのに、七月には相続権がない。父親から継いだ涼風姓を名乗ることを条件に、七月は音瀬家に関わる権利のすべてを放棄し、泰衡に仕える道を選択したからだ。
「……ごめん、七月……っ」
雫が囁くように謝罪すると、七月は元の穏やかさで言葉を続けた。
「口に出される方が少ないだけで……、あなたが想像されるようなことは、おそらく誰もが多少の差はあれ、考えていることです。ですが、つまらない意地を捨て、雫さまは、私に打ち明けてくださいました。その率直なお気持ちを、七月は好ましく思います。あなたを娶ることができる久遠さまも、正直に申し上げれば羨ましい幸運の持ち主です」
「そ、れは……」
希望を与えられることが、時に残酷なこともある。黙ったままの雫もまた、手負い傷を抉られやしないかと、警戒を解けずにいた。それでも七月は続けた。
「まだ、信じられませんか……?」
頷くことすらできずに沈黙する雫にミラー越しの眼差しを寄越した七月は、優しく丁寧に諭す。
「閨房術をはじめる前のあなたでしたら、きっと想像すら、なさらなかったでしょう。それが今は、久遠さまのお心の深い部分さえ気にかけていらっしゃる。大切だからこそ、焦っておいでなのでは……? あなたに憎からず想われる久遠さまは、幸せ者だと拝察いたします」
「でも、おれ……」
「黙っていれば、裏切りにはなりません。そもそも、それぐらいのことは、七月でも想像いたします」
七月はけろりと言うと、ハンドルを滑らかに切った。
「ほん……と、か……?」
「嘘など申し上げる理由がございません」
運転席の七月は雫に背を向け、前を睨んだまま、小さく頷く。
「雫さま。何人たりとも、想像力に枷を付けることはできないのです。どんなに優秀なアルファであっても、例外はありません」
「アルファ、も……?」
恐るおそる鼻を啜り、のろのろと視線を上げた雫に、七月は惜しみなく続けた。
「確かに平均値に均せば、アルファは他の第二種性別群、つまり、ベータやオメガと比べて優秀であることは間違いありません。しかし、忘れている者も多いようですが、アルファの中にも外れ値に該当する者はいるのです。どんな人間も、完璧ではない。時には弱く、間違いを起こすことも、愚かなおこないをすることも、ございます。アルファの中にも落ちこぼれは存在しますし、壁にぶつかることもあります。従って、何も想像しない者の方が少ないと、七月は考えておりますよ。と言っても、これは、あくまで私見に過ぎませんが」
雫にとって、七月の言葉は、さながら泉から湧き出す真水のようだ。雫が自暴自棄になり捨ててしまおうとするたびに、それを価値があるものだと拾い上げ、見出して雫の手元に返す。何千回、何万回と、崩折れるたびに、そうしてもらった言葉を、雫はたくさん持っていた。思い出したら、冷たくなっていた指先に力が戻ってきたような気がする。
「失礼ながら、おそらく久遠さまにも、聞いてみるまでは無垢とは断定できないかと」
「久遠が……?」
驚いた雫に、七月はちょっと肩を竦めた。七月は誰よりも雫のことを大切にし、ありのままを受け入れてくれる、数少ない信頼のおける人間だ。雫の世界に最初に希望の灯火をくれるのが、七月という存在だった。
「はい。機会があったら、尋ねてみることをお勧めします」
「で、できないよ、そんなこと、怖くて……」
「まあ、それは冗談としても、です」
雫が手を解き、重力加速に抗うようにわずかに身を乗り出すのを確認した七月は、さらに続けた。
「大人になられる兆候でしょう。恥じることはありません。が、大切なことですから、信頼できる相手以外には秘めたままの方が良いと七月は考えます。雫さまがオメガであられる以上、久遠さま以外のアルファの視線にも、晒されることは事実ですので」
「それは、つまり、相手を選べ、ということか……?」
「はい。それは、雫さまがすべき判断で、七月に頼る話ではありません。当面の間、ご決断なさるまでは七月が相談に乗りますが、いずれはご決断ください。……きっと皆、そうやって大人になってゆくのです」
蛹が蝶に羽化するように、きっと雫にも、その時が訪れる、と七月は断言した。
ともだちにシェアしよう!

