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第12話 秘め事(1/3)
夏風邪を拗らせ、雫は数日、大学を病欠した。
先週末、不本意な形で西園寺邸を辞した雫を久遠が見舞いに訪れたのは、その週の木曜日のことだった。
「わざわざごめん。ありがとう、久遠」
出された課題と必要なデータを携えた久遠は、雫の様子に安堵の表情を浮かべた。週末こそ謎の体調不良に怯えた雫も、今は単なる風邪だったのかもしれないと訝るまでに快癒していた。
ベッドで半身を起こした雫のすぐ隣りに置かれた椅子に腰掛けた久遠も、恋人の顔色にほっとしたようだ。しかし、雫のリクエストでココアを運んできた七月が下がろうとすると、縋るように引き止めた。
「七月。少しの間、ここにいてくれないか」
「かまいませんが……」
久遠がひとりで訪ねてきた時は、七月は席を外すことが多い。戸惑う七月に、久遠は眉を下げて肩をすくめる。
「この間は僕とふたりきりの時に体調を崩したからね。もう不名誉な謗りは受けたくない。雫と健全な付き合いをしていることを、きみにもちゃんと知らせておきたいんだ」
冗談交じりに笑う久遠から、かすかに怯えの匂いを感じた雫は、端からはわからないほど小さく眉を顰めた。あの体調不良は久遠のせいではないと伝えていたが、やはり気になるのだろう。
しばらく他愛のない会話が続いたあとで、久遠が真剣な顔をした。
「ね、雫。ちょっときみに触れてみても、いいかな……?」
「もちろん」
あらたまった様子に、雫が頷くと、久遠はそっと片手を上げた。雫の額に汗で張り付いた朽葉色の髪を一房つまんで梳き、その指がうなじへと滑る。
「……っ」
不意打ちに雫は反射的に緊張した。先週末と同じ形で、アルファに処女地を晒している。気持ちが半分その場所へとどまり、鼓動が速まるが、雫はあえて知らぬふりをした。うなじに触れたせいで調子を崩したのではないかと葛藤する久遠の様子を知っていた。未来の配偶者の心が少しでも和らぐなら、こんなもの、我慢のうちに入らない。
「……ありがとう、雫」
「ん……?」
やがて、うなじに触れていた久遠の指が、外される。同時に羨望の眼差しを向けられ、雫は少し当惑した。
「きみはやっぱり、凄い」
「おれ……? おれは、久遠の方が凄いと思うけれど」
困惑と面映さが同居する表情の雫へ、久遠は賞賛の眼差しを向ける。
「いや、きみにはかなわないよ。今日はそれを実感した。きみに愛される人は、きっと凄く幸せだ。ま、僕のことだけれど」
冗談めかして惚気る久遠の様子に、通常運転に戻ったようだと雫は胸を撫でおろした。来訪したての久遠は目尻の辺りをやつれさせ、思い詰めていた。口には出さないが、不安だったのだろう。雫を想ってしてくれた数々のことが、予想もつかない形で裏目に出てしまい、つい必要以上に、雫も言葉を選びすぎてしまったきらいがある。
だからこそ、久遠から不安の根を取り去り、ちゃんと笑って欲しかった。
「幸せな婚約者に想われるおれは、もっと幸せだ」
「良かった。きみを愛する理由が増えたよ」
ボタンが上手くかけられたことが嬉しくて、雫は久遠と顔を見合わせて笑った。久遠を幸せにしたいという、大きな希いが胸に満ちる。それこそが、不遇なオメガである雫を支え続ける原動力だった。
「あの、久遠。おれ……」
体調を崩している間、閨房術も休んでいる。おかげで心も身体も落ち着いたかに見えた雫だったが、新たに生じた悩みに煩悶していた。
「ん? ……どうしたの? 雫」
「あ、いや……」
水を向けたはいいものの、どう話せばいいのか迷い、内省してしまう。
ふと視線を上げると、七月と目が合った。
『久遠さまと、幸せになるためです、雫さま』
『わかっている。わかってはいる。でも……』
——閨房術は、裏切りではないのか。
心の底に満ちた濁った泡が、水面へとぽこぽこ音を立てて主張する。七月の否定的な視線に晒されながら、雫はきゅっと閉じていた唇を、おもむろにほどいた。
「久遠。おれ、絶対に大丈夫だから」
考えた末にまっすぐ視線を上げると、久遠が少し驚いた顔をした。
「あ、その……先週末のことと、以前、広まった噂のことだけれど」
久遠が好きだ。だから、閨房術という、言葉の意味もわからない不確かなものにまで手を出した。異父兄の七月を巻き込み、愛撫をねだって溺れる不埒なオメガになる道を選んだのは、他の誰でもない、雫自身だ。だから、まだ昼の雫しか知らない久遠は、瞠った目を和ませ、頷く。
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