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第13話 貌(1/3)

「久遠さまの仰るとおり、何も不安に思うことなどないのですよ」  久遠を送り出した七月は、部屋へ戻り、雫に声をかけた。飲み干されたココアのマグをふたつ、トレーの上に回収し、久遠と雫の間に流れていた清浄な空気の名残りに、締め付けられる胸の痛みを無視する。引け目を感じる自分を認められず、辞する際に「雫をお願いするよ」と久遠から念押しされたことも、伝えられずにいた。 「うん……。久遠は、おれが思いつきもしない言葉をくれる。驚いた。あんな風に想ってくれているだなんて……」 「あの方の愛情深さには、七月も感服いたします」  心の中の、いつ噴き出すとも知れぬ劫火に蓋をした七月は、雫に気づかれないようにため息をついた。下がる前に、話さなければならないことがあった。 「先ほどは、よく思いとどまられました。雫さま」 「っ……ごめん。勝手な真似を……」  七月が切り出すと、雫は息を呑み、俯いた。緊張した時の癖で、上掛けをきつく握る。先週末、不測の事態により西園寺邸を辞してから、幾度か話し合いを重ねてきた議題が、未だ平行線を描いている。久遠への、閨房術の開示をめぐる是非が、雫と七月の日常に小さな亀裂を生じさせていた。 「いえ、私の力不足により、あなたに負荷をかけていることが心苦しいです」 「これは、おれの問題だ。七月は悪くない」  七月へ信仰に近い信頼を寄せる雫は、久遠の前では気丈に振舞うが、心を磨耗させている。肉体的には何の問題もないと医師が太鼓判を押すにもかかわらず、発熱が続き、明け方近くまでうなされては、浅い眠りから浮上するたびに久遠や七月に詫びの言葉を紡ぐ。これまで大事な決断の前には必ず七月との間で合意形成を試みてきた雫の、衝動的行動を愚かだと責めることもできたが、それでは溝が埋まるどころか、互いの心が離れてゆくだけだ。 「好きなのに……不安にさせるばかりだ。不甲斐ないよ」  呟く雫に、提案を受け入れることは不可能だと、何度も七月は説き伏せていた。 「先日も申したとおり、私は、雫さまが傷つく選択は受け入れられません。そんな決断をなさらなくても、発情期がくれば問題ないはずです。それが上策だと、七月は考えます」 「現状、きみの時間を奪っているだけじゃないか」  雫がへろっと笑うと、胸が軋んだ。 「それでも、です。今の段階で明かしても、揉めるだけです。知れば、久遠さまでも平静ではいられないでしょう。雫さまを責めるかもしれません。最悪、将来に影響も……はっきり申し上げれば、破談になりかねません。そうなれば、傷つくのはあなたです、雫さま。七月は嫌です。それに、嘘と隠しごとは違います。すべてを打ち明けるばかりが、愛情ではありません。茨の道を選ぶような決断は、承服いたしかねます」 「きみのその言葉が、そのまま閨房術の性質を示しているとは思わないか?」 「それは……」  何度も繰り返されたやり取りは、こうして袋小路に迷い込む。この言い合いが主従の関係を壊す種類のものではないと承知していても、自我を目覚めさせつつある雫を、七月は、まだ鳥籠の外へ出したくはなかった。 「会うたびに……もし立場が逆だったら、と考えてしまう。最初に頷く前に、ちゃんと大叔父さまから、説明を聞いておくべきだった。きみとも、しっかり話しておくべきだった。大事なことなのに、流されるように決断してしまったことが恥ずかしい。きみはよく尽くしてくれるけれど、これ以上は、罪になる気がする。だから……」  異父兄弟だから、これ以上のことはできないし、したくない。雫は自責するばかりで、七月を責めようとはしない。その態度が、七月の危機意識を煽る。 「発情期がくるのが一番いい、ということは、おれもわかっている。でも、真似事だからという理由で、閨房術をおこなっていることを隠したまま嫁いで、本当に久遠を蔑ろにしていないと言えるだろうか……?」  問いに頷くことができず、七月は俯いた。久遠が腰掛けていた椅子に、静かに腰を下ろす。  いつか目覚めの時がくる。予測しなかったわけではないが、この時期に閨房術を表沙汰にするのは、タイミングが悪過ぎる。広く社会に認知された絆が保たれたまま、心を奪うことを目的化してきた七月だったが、久遠の愛情深さからくると予想される、裏切られた時の反動からは、雫をできる限り庇いたかった。たとえ雫の心を久遠から引き剥がすのに、今以上の力を要するとしても、今、その結びつきに瑕疵を刻むのは本意ではない。 「七月。今日は衝動的に久遠に話をしようとして、悪かった。これからは、ちゃんと事前に言うよ。それと……大叔父さまに、近いうちに時間をつくってもらえるよう、お願いしてくれないか」 「旦那さまと、話されるおつもりですか?」 「うん……。筋を通すなら、避けては通れないだろ?」 「それは、そうですが……」

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