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第13話 貌(2/3)
雫は七月の沈黙を拒絶と受け取ったらしく、おずおずと口を開いた。
「何も打ち明けられないまま、待つのは、つらいよ。おれは、久遠をそんな気持ちにさせたままにしたくない。久遠だって、まったく何も気づかないはずは、ないんじゃないかと思う」
「雫さま……」
久遠を想いながら、明らかに七月の話をしている雫に、返す言葉がなくなる。
雫の第二種性別がオメガだと判明してほどなく、七月は年若い主人に対して、初めて歪な衝動を覚えた。相手は七つも年下の子ども、しかも異父弟だ。衝撃に頭を殴られた気がした。そして、穢れた劣情を雫にぶつけないために、初めて他人と肌を合わせた。その時期に立て続けに抱いたアルファもベータもオメガも、両手では足りない数の遊び相手となったが、やがてその放蕩ぶりが泰衡の耳に入ると、尻拭いついでに、七月は第二種性別判定の精密検査を受けさせられた。
結果、いわゆる「突然変異」の「種無し」であることがわかると、泰衡は嬉々として七月を、音瀬の影響力を強めるために使い倒した。
表沙汰にできないスキャンダルをでっち上げるために、金で釣られ、誘惑役を引き受けたオメガを躾ける仕事へ七月を従事させ、幾人をその道へ引き込み破滅させたか、正確な数を覚えていない。ほどなく足を洗い、斎賀准教授と出会うと同時に、泰衡の了解を取り付け、発情抑制剤の研究に傾倒していった七月は、未熟さゆえの過ちを後悔したが、今も何ひとつ、その時のことを雫に伝えられずにいる。
雫は七月の裏の顔を知らず、素直に育った声で、説得を試みる。
「誤解しないでくれ。閨房術が……きみとするのが嫌なわけじゃない。あんなこと、本音を言えば、きみか、久遠以外とだなんて、絶対にできない。でも」
心を決め、もがいている雫が、健やかに育つために何が必要なのか、理解しているつもりでいた。ずっと寄り添ってくれている久遠に、ちゃんと嫁ぎたいという雫の意志も希望も、織り込み済みの計画だったはずだ。
(私も、か……)
矛盾を抱えているのは、雫だけではない。
「もし、久遠がおれ以外の誰かと、ああした真似事をしたら……? おれは凄く寂しいし、傷つく。もしかすると怒りさえ覚えるかもしれない。今、おれたちがしているのは「そういうこと」なんだと思う。なら、なおさら、こちらから打ち明けるべきだ。おれは、いたずらに久遠を傷つけたくない。でも、傷つけざるを得ないのなら、できる限り小さな傷にしたい」
欺瞞に過ぎないとわかってはいるけれど……と続ける雫は、目元に疲れを滲ませながら、丁寧に心情を説明し、懇願する。それは、七月となら、理解し合えないはずがないという信頼からくる行為だった。
「おれの無知がもたらした事態だ。始末は自分でつけさせてくれ」
雫が傷を受けたとしても、間を取り持ち、あるいは七月が怨みを買う形で犠牲になれば、久遠を繋ぎ止めることができるかもしれない。最悪、関係を絶たれたとしても、今日の久遠の様子なら、いずれ修復を望んでくる可能性が高い。過保護と言われれば返す言葉もないが、雫には、一見、蒼穹を映す凪の水面がきれいだからという理由で、水深すら確かめずに飛び込む真似をして欲しくなかった。
最近の雫は夜がくるたび、ひたむきに久遠を呼びながらいく。視界に七月を映したまま、久遠をねだるのだ。その瞼を閉じさせたいと、何度、思っただろう。閨房術という名の下にのみ許される倒錯的な行為の数々を目にした時、久遠が、雫に求めらるまま、一線を踏み越える未来を容易に想像できた。それが妄想なのか、確率を弾いた上での予知なのか、判断できないまま、七月は予測する未来に苛まれていた。
「雫さまのご判断には、七月は断固反対です。ですが……」
心の中で繰り返し、絶対に反対だ、と強く念じる。にもかかわらず、雫の想いを蔑ろにはできない、という忌々しい感傷が湧き起こる。この、どこからくるのか判然としない気持ちに抵抗を試みる時、最後に導かれる場所が七月の心の中にはあった。一度、その道が光を放ちはじめると、他の判断ができなくなる。雫と相対すると、操られでもするように、やがてその一瞬が、訪れてしまう。
「いかなる時も——私の最優先事項は、雫さまです」
「七月……」
口走ってしまった時、雫の眸が大きく瞠られた。
その表情を見た七月は、これこそが見たかったのだと本能的な強さで悟る。
「あなたの心からの決断なら……受け入れましょう。ただ、ことがどう運ぶかは、私にもわかりません。覚悟だけはしておいてください。私も、腹を決めます。心の話はさておき……旦那さまにはどう対応なさいますか?」
いつか、こうなってしまうだろうことは、わかっていた。どう抗っても、雫の心からの意志を曲げる決断ができない七月は、状況を覆す努力を放棄するしかない。
「私のことは、ありのままお話いただいてかまいませんが、無理をしていらっしゃいませんか? 雫さま」
七月の言葉に、雫は初雪の朝のような表情をする。これを手に入れたい。慈しみたい。守りたい。寄り添いたい。穢し、踏みにじりたい。相反する衝動に心を食い荒らされながら、のたうち回るのが七月の人生だ。
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