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第13話 貌(3/3)

 ならばせめて……と希う。  雫の無垢な魂の輪郭に、誰かの代わりとしてではなく、涼風七月として触れたい。  頑なに、自らに禁じてきた欲望が、枷を喰い千切り暴れ出す。澄んだ泉が泥でかき乱され、濁り、慈しみたいと願う反動で、踏みにじりたい衝動が膨れ上がる。矛盾の嵐に七月が荒れ狂う中、雫は疑うこともなく、言葉を発する。 「大叔父さまには、おれが直接、話をするよ。概要も、現状も、見通しも、ぜんぶちゃんと説明したいから。七月は、おれが我が儘を言っていると伝えてくれさえすればいい。きみの言いつけを守らず、勝手をしていて、手に負えないと。半人前の言うことなど聞かないと言われるかもしれないが、丸投げしてくれていい。それと……おれは、きみを悪者にする気は、ないから」  決意とともに放たれた雫の言葉に、心が揺れる。強いとは、決して力ではないのだと、幾度、雫に自覚させられただろうか。 「かしこまりました。久遠さまの出方次第で状況が変わりますから、それを待って対策を練ることにいたしましょう。それで、よろしいですか?」 「うん……ありがとう、七月」  半人前のオメガひとり操れない、似非アルファの出来損ないだと、泰衡が七月を貶したとしても、せっかくできた西園寺家とのパイプを無闇に捨てる選択はしないだろう。西園寺との関係は、丸々、放棄して保身に走るには重すぎて、野心家の泰衡にとって、飛び切り魅力的な餌に違いなかった。  だが、安堵の表情を浮かべる雫を前に、七月は引き返せない深みへと踏み出す。 「それと……今後の方策を練るにあたり、ひとつだけ条件を付けさせていただいても、よろしいでしょうか?」 「条件?」 (——駄目だ……)  無邪気に問う雫が、少し姿勢を前傾させる。あどけない仕草に心が重くなりながらも、七月の唇は意志に反し、半ば自動的に裏切りの言葉を紡ぎ出す。 「近々、久遠さまに、あなたをお渡しすることになります。ですから、ちゃんとしておきたい。やれることは、すべてやっておきたいのです」 「つまり……?」  違う、止まれ、と祈るように念じるが、裏腹に、もっとも狡猾な思考が七月を唆す。 「今までは、婚姻日から逆算して、予定を組んでおりました。それを、早めたいと思います。ついては、今宵、最後の授業をしたいと存じます」 「それは……」  戸惑いと迷いが明らかに浮かぶ雫の表情を、言葉でねじ伏せ、誘導しようとする。黒い靄に包まれ、視界がまるで利かない嵐が吹き荒れる中、揺れる雫の眸を覗けば、きっと醜い七月の心が透けてしまう。だから七月は雫と視線を合わせることができない。 「あなたを最良の状態に仕上げて、久遠さまにお渡しするのが、私の役目です。中途半端な仕事はしたくない。断っていただいても、かまいません。七月の、我が儘ですから」  ぎこちなく凍る空気に、まだ間に合うと内心で叫びながら、何を求めているのか、七月にもわからなくなる。無言のまま考え込む雫を祈るように待ちながら、浅はかで歪な情欲を放棄できない弱さと愚かさを憎んだ。こんな歪で不誠実なアルファを、雫が選ぶはずがない、という確信が、七月を罪へと誘導する。 「おれは……オメガだ。久遠のための。久遠のためだけのオメガになりたいと、ずっと願ってきた」  雫がアルファなら——そう願った日々を思い出す。もし雫がアルファだったら、久遠と婚姻関係を結んでも、生物学的構造上、子どもを産むことができない。雫がアルファでさえあったなら、七月の執着も、久遠の愛情も、果たしてこれほど強いものになっただろうか。 「きみが最良だと思うのなら、きみの意見を容れたい。おれは無知だけれど、機会があるのに試さないのは、音瀬家に誕生したオメガとしての怠慢だ。責任の放棄でもある。それに、ちゃんとしたオメガになるために、何でもすると決めた気持ちは嘘じゃない。久遠にきみとのことを話さないで嫁ぐことはしたくない。けれど、告白を決めたのは、自分の気持ちに従いたいからだ……それは、おれの我が儘でもある。それに……」  迷いながらも、まっすぐ進もうとする雫の声に、オメガが劣っているなど嘘だと、七月は何度も気づかされてきた。そのたびに、これが、ただのオメガに対する執着だったら、どんなに楽かを思い知る。 「きみは、おれの意志を受け入れてくれた。だからおれも、きみに従うのが筋だと思う。七月は、おれの先生だから……だから、最後の授業をしよう、七月。ぜんぶ、おれに叩き込んで」  最後の授業が何を意味するのか、予測できないせいか、雫はわずかな怯えを滲ませ、音瀬家の嫡子として正しい決断をしようとする。いつだって、雫は、身も心も投げ打つように開示する。雫の決断に、目の奥が熱くなり、自己矛盾に苛まれた七月は、心の内を決して晒すまいと決め、密かに歯を食いしばり自分の半身を殺めた。 (この、欲望は間違っている。だから、消す……)  それが、七月の根源に根ざす感情だとしても、雫のために息を止めることぐらい、できる。 「かしこまりました、雫さま——」  凜とした雫の眼差しの中にいる七月の本物の貌——その裏にある、あさましい二律背反を、雫は知るべきではない。  知らせる必要もない、と七月は断じた。

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