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第14話 うなじとくちづけと(*)(2/4)

(はやく……打ち消す言葉を……) 「ぁ、ん、ぁん……っ」  生まれた日から今日に至るまで、雫は七月に生かされてきた。執着しても、歪んでいても、七月は雫の尊敬するロールモデルだ。しかし、いつもならば、とっくに「久遠」と唱えさせ、雫に記憶の上書きを試みる七月が、今日に限り静かだった。 (「久遠」と呼ばなければ……「七月」じゃないと、ちゃんと記憶しなければ……)  焦る心の内側で、聞き違いかと訝るほどの小声で、七月が雫を呼ぶ。 「雫……さま」  同時に、左鎖骨の上に、七月が軽く額ずく。 「七月は、あなたのものです、ずっと……」  大きく目を見開き、雫は幻だろうか、と訝しんだ。あの七月が、ベッドの上で久遠のふりさえせず、甘える仕草をする。泣き出しそうな声で呼ばれた雫は、七月の表情を確かめようと顎を引くが、左鎖骨に額を付けた七月の顔は、窺い知ることができない。  我に返った雫は、つい唇をほどいた。 「な、つき……?」  空耳なら、すぐにまた溺れればいい。だが、雫の確信を裏づける言葉はなく、代わりに怯え、途方に暮れた七月が、困惑するようにいるだけだ。上掛けを握った両手を剥がした雫は、幼子をあやすように、久遠にしか回したことのない腕を、憐れみとともにおずおずと七月の背中に回した。されるがままの七月が雫の両肩を縋るように掴む。指先は熱いが、震えていた。  人と、中途半端な着衣越しにでも、肌を合わせることに餓えているのか。雫がおずおずと背中を撫でると、七月は力を込めた指先でしがみついてくる。  ――今宵を、終わらせたくないのだろうか……?  幻想のような予感に囚われる。七月は優れたアルファだ。だが、もし弱みを晒すなら、理由を問いたくない。七歳に満たない年齢で両親の死に直面し、独り立ち直ることを強いられた七月には、雫が抱く感傷のような気持ちはないのかもしれない。これ以上進むことはできないが、それでも、これまで七月に与えられてきた分を返せないかと、雫は祈った。 「七月……」  温もりを分け合えば、想いが伴われ、互いの何かが変わるかもしれない。昇華しきれない歪な執着の果てにあるものを、不完全でも、識ることができれば。 (この気持ちは……、これも、おれの一部だ……)  矮小な感情だと否定しかかっていたものを自覚した途端、雫の脳裏に、七月との日々がフラッシュバックした。  同時に久遠への気持ちが、雫をもみくちゃに苛む。一途でいたいと願いながら、七月を手放せない雫の心は、きっと穢れた酷い色をしているに違いない。  その時、七月が喉奥で、空気を潰すような音をさせた。 「ぐ……っ、逃、げ……っ」 「ぇ……?」  瞼を開けると、異様な雰囲気が立ち上がっていた。七月の前髪が肌に接地し、さらりとした冷たさの中に熱を感じる。その熱が、ただの熱とは思えない激しさで七月を苛んでいることに気づいた雫は、やっと背中を撫でていた手を離した。  すると、雫の肩を掴んでいた七月の両指先が、いきなり火を浴びたように強張り、ぎり、と鈍い音を上げつつ、肌に痛みを生む。 「……っ、ぃ……っ!」  意識が現実に戻った時、肩を掴んでいたはずの七月の右手がシーツを握り、ぐしゃりと拳をつくった。苦悶の声が上がる。 「ぅ……ぐっ、ぅ……っ」 「な――痛っ……っ!」  次の瞬間、ぶちりと雫の肌を刺す痛みがした。  ほどいた腕をふたりの身体の間に入れた雫の、左鎖骨と上腕骨の継ぎ目に、七月が歯を立てる。皮膚を破られ、血が滲み、途方もない熱だった。甘噛みとは違う、明らかな加害行為。驚き、緊張した雫は、初めて、ベッドの上にいる七月と視線を見合わせた。 「……っ!」 (発、情……っ?)  この行為が、それに類すると確信すると同時に、背筋が粟立った。アルファの放つ強い視線に身体が萎縮する。目を瞠る雫の前で、七月の相貌が獣のそれに変わりつつある。普段の穏やかな無表情を食い破り、食いしばった口の端から覗く犬歯がぐぐっと育つ。苦しげに息を吐き、瞳孔が開ききり、爛々と獲物を狩る意志を漲らせている。  危機を察知した雫は、七月の喉元を両手で押しとどめようとした。力を込めた際に爪が皮膚を引っ掻き、焦れた様子で犬歯を見せた七月は、雫の腕の内側の皮膚に狙いを定め、そこへ歯を立てた。 「痛……っぃ! たい、っ……!」  衝撃に、握っていたリモコンを枕元に落としてしまう。拾おうと伸ばされた雫の両手首を掴むと、七月は頭上でひと纏めに拘束してしまう。 「ぁ……!」  暴れるが、びくともしない。かろうじてうなじは守れたが、代わりに鎖骨を覆う薄い皮膚を、みだりに噛まれる。肌を裂くおぞましい音とともに、鬱血し、傷ついた場所を、七月はまるで愛しいもののように繰り返し舐め、さらに上から犬歯を突き立てる行為を繰り返した。

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