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第14話 うなじとくちづけと(*)(4/4)

「っ……!」  リモコンを追い、うつ伏せに振り返った雫の腰を鷲掴みにすると、七月はその背中に跨り、雫の片腕を背後で縛め、のしかかってきた。 「ゃ……っだ、七月……っ!」 「無駄だと、言ったはず……っ」  息を乱し暴れる雫の後頭部に七月の声が降る。今度こそ、逃げる余地もなく押さえ込まれ、もがいたら肩を外されそうだった。久遠の紹介で会得した護身術も、アルファの本気の力の前には、何の役にも立たない。  処女地を誰かに晒すのは、初めてではない。だが、七月は絶望したオメガを味わうかのように、すぐには噛みつかなかった。鼻先で、汗の匂いが混じる雫の朽葉色の髪をかき分け、うなじをなぞる。自由を奪われた雫は、千切れるほど心を乱し、今度こそ覚悟した。 (今から――七月のものになる……)  観念し、心の中で久遠に詫びた。雫は強く目を閉じ、最後に七月の良心へ、哀願する。 「ゃ、だ……っ、な、つき……っ、いやだ、お願いだ……っ」  べそをかきながら震える雫の声を断ち切るように、背後で七月が大きく口を開ける気配がする。 「七月——……っ!」  ぶちりと肉を裂く、不気味な音に身体を強張らせた雫は、痛みを覚悟した。 (……っ?)  が、ほどなく訪れるはずの痛覚が、なかった。  うなじを噛まれる時は、痛みがなくなるのか、それとも脳内物質のせいで、一時的に痛覚が麻痺しているのか。訝り、うっすら目を開けた雫の処女地に、ぱたぱたっ、と滴る熱い水滴の音がして、濃度の高い飛沫のようなものが散り、肌を滑る感覚に、雫は戸惑う。 「ぇ……?」  喰いつかれれば、痛みがあるはずだと訝しんだ雫が、いつの間にか自由になった両手をシーツに突き、恐るおそる背後を振り返る。すると、鋭い眼光の七月と視線が絡んだ。  その光景を目にした雫の頬に、鎖骨に、肋に、ぱたたっ、ぱたぱたっ、と液体が降り注ぐ。 「な……んで……っ」  七月は息を乱したまま、激しい視線で雫を射ていた。だが、眸は理性の光を宿している。牙が、シャツの捲られた七月の左腕の皮膚に、深々と食い込んでいた。 「な……っ」  七月が自分の左腕を、雫のうなじに見立てて噛んだのだ。牙が退行するタイミングで、傷つけた左手首から犬歯を引き抜く。口内に溜まった血をクシャクシャに丸まった上掛けの上に乱暴に吐き出すと、深呼吸を繰り返し、血に染まった唇をぐいと乱暴にシャツの袖口で拭った。雫から視線を逸らすと、ゆらりと七月は身体の向きを変える。 「っ……っ」  手を伸ばしそうになり、雫は堪えた。固まる雫に背を向けた七月は、ベッドを降り、汚れた右手で椅子の背に掛けられたジャケットの内ポケットを乱雑に探ると、透明なフィルム――先日、七月が見せてくれた発情抑制剤だ――を委細かまわず流血している傷口に貼り付けた。 「ぅ……っぐ、く、ぅ……っ!」  歯を食いしばる七月は、背中を曲げ、震えながら蹌踉めいた。ふらつく身体を椅子の背を掴み、支える。荒い息をどうにか制御する頃には、七月から獣の気配が消えていた。  止血のためか、半分、床に放られた上掛けを、左腕にぐるぐると巻きつける。 「申し訳ありません……雫さま」  ぽつりと呟くと、七月はそれきり雫を一瞥もせず、床に落ちたリモコンを回収すると、扉へ向かった。 「今宵は、失礼させていただきたく……」  ドアノブに手をかけた七月に、雫は声を震わせた。 「かま、わない……かまわないから、大事にしてくれ……っ」  過去にオメガであることを理由に、他のアルファに迫られたこともある。だが、久遠や七月が傍にいてくれたから、ここまで緊迫した状況にはならなかった。雫のうなじを守るために左腕を犠牲にした七月に、すぐ止血を、と考えるが、オメガの雫が暴走しかけたアルファの七月に情を示せば、性衝動を再刺激する可能性がある。  身喰いの真似事をしてまで止まってくれた七月に、差し出せるものが何もない。  七月がこんな変容をきたすなど、考えもしなかった。いや、我慢をしていることさえ、認識していなかった。 「明日は——他の者に、こさせます……」  扉が閉まる直前に、そう言い置いた七月が去ると、雫は長いため息とともに、膝を抱え丸くなった。  唇に指先を添えると、熱の名残りはなくなっている。  独りになると、身体のあちこちに強いられた傷痕が、ズキズキと痛む。 (怖――かった……っ)  奪わせて、しまった。  肋の奥で、心臓が暴れている。  闇の中、雫はひとり、声を堪えて泣いた。

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