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第15話 不在と存在(1/5)
眠れないまま夜が明けると、雫は柏木(かしわぎ)に叩き起こされた。
七月の代理として音瀬家を訪れた柏木は、七月の直属の上司だ。四十絡みのシルバーフレームのメガネをかけ、慇懃な態度で速やかに朝食を摂るよう雫に促した。
「涼風がどうしてもと言うので」
風邪をこじらせたと言い訳をしたらしい七月のことを名字で呼ぶ柏木は、七月が未成年だった頃から泰衡の秘書として働いている生え抜きで、七月に薫陶を授けたひとりでもある。雫が幼稚舎へ入学を果たすと、七月と雫の送迎をまとめて担当し、途中からは久遠を含む三人と、毎日、顔を合わせた。にもかかわらず、まるで気の置けない関係ではなく、七月が突然、体調不良を理由に職務を放棄したことについても、あまりいい印象がないようだった。
「おれが……うつしてしまったんです。ご迷惑をおかけして、すみません」
「仕事ですから」
取りつくしまもない返答をする柏木は、最初に会った時のシャープな印象が年を経るごとに研ぎ澄まされ、機能性だけを追求したレターオープナーのような男になっていた。
七月が運転免許を取得すると、間もなく雫と久遠の送迎は七月の仕事になった。柏木はやっと面倒が減ったという顔で、挨拶もそこそこに通常業務へと復帰していった。ほとんど一日も欠かさず雫らの送り迎えを続けたことに対しては、何の感慨も持っていないようだった。
七月は久遠にも連絡を入れたらしく、朝、柏木が運転席にいるのを確認すると、久遠は訳知り顔で「おはようございます」と軽く会釈をして、雫の隣りにおさまった。
「昨夜遅くに連絡がきたけれど、喉をやられたんだって? こんなの初めてじゃないか」
久遠の声は、柏木を憚ってか、内緒話のトーンだった。
「うん……七月には、悪いことをしたよ」
七月が打ち明けていないことを、雫が無闇に喋るわけにはいかない。青ざめるのを自覚しながら、雫は何もないふりをした。七月に噛み付かれた鎖骨と上腕、それに引っ掻かれた脇腹の傷を隠すために、雫は藍色のノースリーブのタートルネックの上に、同色の長袖のカーディガンを羽織っていた。傷口は自分で消毒したが、過ちを忘れるなと主張するように、じくじくと膿んでいる。
アルファが我を忘れるのは、オメガのフェロモンを浴びた時だけだ。
通常ならば、オメガもアルファのフェロモンに反応するはずだが、久遠に迫られかけても、七月に奪われかけても、雫は発情しなかった。これがどういうことなのか、密かに雫は怯えていた。
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