39 / 118

第15話 不在と存在(2/5)

 七月が消えて十日ほどが経過すると、次第に雫の身の回りは荒れはじめた。  眠る前に時々、出されていたココアやハーブティーも、たまに朝食に振る舞われる特製のフレンチトーストもない。夜毎、おこなわれていた閨房術の指南も絶えた。雫はできる限り生活を維持しようと努めたが、さすがに翌々週の半ばになっても音沙汰がないことに、誰もが七月の不在の理由を疑い出していた。 「本当に大丈夫? 七月もだけれど、僕はきみのことも心配だよ、雫」  眠れない夜が続いたある日、久遠がそう漏らした。納得のいく説明を求められているのは明らかだが、煩悶する雫を気遣う久遠にさえ、沈黙するしかない。 「今朝、試しに七月に連絡を入れてみたんだけれど、既読さえ付かないんだ。きみの方で、何か聞いていない?」 「おれにも、わからないんだ……ごめん」  同じ家に住んでいるのに、話はおろか、顔も合わせていない。怪我の具合や、手当てをちゃんとしているのか。医者にかからなくても、平気なのか。仮病で休んでいるのならまだいい。だが、あの夜の苦しみが続いているのなら、七月の世話はいったい誰がするのだろう。  七歳の年齢差は、七月を完全無欠の英雄とみなすのに、十分だった。  幼い頃から雫は、七月を何でもできる素晴らしい大人だと尊敬していた。雫のその態度が、七月から強がる以外の選択肢を奪ったのかもしれない。思い返せば心当たりは山とある。七月は時々、必要以上に雫と距離を取りたがった。体調不良だったり、忙しかったり、あるいは傅く相手——つまり雫への敬意の現れだと理解していたが、誰にも何も言えないまま、追った傷を隠し、独りで癒していたのだとしたら、そんな孤独を雫は知らない。  オメガであることを理由に、雫は七月のテリトリーを避け続けている。暴走しかけたアルファに不用意に近づいて、七月を追い詰めることだけは絶対に避けなければならない。一方で、我が儘だと承知しながら、このまま七月との関係を断ちたくなかった。 「久遠。きみは、おれといて……たとえばだけど、アルファの、原始的な気持ちに目覚めるようなことは、ないのか……?」  いつも紳士的で優しさを忘れない久遠の答え如何で、少しばかり過剰だと思いながら受け入れてきたスキンシップを拒むことも、今後、考えるべきかもしれない。雫にその気がなくとも、無意識のうちにアルファを誘引するフェロモンを出している可能性もある。  だが、雫の悩みをどう受け取ったのか、久遠はけろりと白状した。 「まあ、あるよ。わりと頻繁に」 「あ、あるの、か……?」 「気づかなかった? でも抑制剤を飲んでいるからね」  久遠はシートに身体を預け、優雅に脚を組み替えた。仕草の端々にすら、抑制的な気配ひとつしない。完璧な制御だった。 「おれ、アルファが何を考えているのか……ある程度なら、察しているつもりだったけれど」  あの夜の行動をひとつずつ追いながら、七月が呑まれた理由を幾つも思いつく。フェロモン抑制剤を使うべきだと誰も進言しなかったのは、一般に未発達のオメガへの抑制剤投与が推奨されていないこと、久遠も七月もそれを望まなかったこと、そして、雫の成長が歪すぎて、本来、作用する誘引フェロモンの威力を、見くびっていたからかもしれない。  久遠は疑念に駆られて俯く雫に、そっと語りかけた。 「アルファという枠で括られているけれど、突き詰めれば僕らは個人なんだ。誤解も曲解も理解もする。きみが自分のことを理解不足だとわかっても、いい機会だし、自然なことだと思うけれど?」 「それは……」  もし、久遠に影響しないフェロモンが七月に影響するとすれば――。  怖ろしい可能性に雫は凍える。  久遠と話していると、オメガであることを忘れそうになる。本来なら、こうして直接、口を利くことができるかすらわからないのに、七月の不在と久遠の存在は、雫に世界の見方を変えさせようとしていた。 「アルファとの、適切な距離って、きみはどう思う? 久遠。おれときみとの距離は、正しいのだろうか?」 「むしろもっとくっついていたいな」  混ぜっ返した久遠は、考えごとをしながら話す時の癖で、飛び跳ねている巻き毛に指を絡めながら重ねた。 「雫。僕はね。きみにひとつでも多くの選択肢を残しておきたい。オメガが生きてゆくために必要なものは、残念ながら、この時代、いくらあっても多すぎることはない。だから、たとえば僕の我慢がやせ我慢でも、きみが気にする必要はない。僕の問題だからね。そして七月にも、たぶん七月の問題があるんだろう。それが、きみにもあるように」  婚姻届が受理されるまで、何が起きるかわからない、と久遠は常々、ぼやいていた。だから雫が選び取れる未来を潰さないこと、可能性を詰まないことに、心血を注いでくれる。一方的に甘えるのは心苦しいと思いながら、雫も、それを受け入れてきた。今なら、それがどれほど尊い努力か、理解できる。

ともだちにシェアしよう!