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第15話 不在と存在(3/5)
久遠は少し考えてから、そっと言った。
「雫。少し、僕の話を聞いてもらえる?」
「うん。何……?」
雫が促すと、久遠は切なげに眉を下げた。
「僕は、七月とも、きみとも、そこそこ長い付き合いになる。でも七月とは、時々しかちゃんと話をする機会がなくて、彼の心を類推する材料があまりないんだ。でも、君らの関係が複雑なものであることは周知の事実だから、ある程度、想像することはできる」
久遠はそう言うと、一旦、言葉を切った。人の痛みがわかる人だ。雫の態度にもどかしさを感じたとしても、混乱と悲嘆と悔恨をひた隠し、頑なに日常を演じ続けようとする恋人を哀れんだとしても、驚かなかった。
「七月は顔にも声にも出さなかったけれど、きみに苛立っていることが時々、あったよね。もしくは自分自身に腹を立てていたり。態度、というか、雰囲気は、わりとお喋りだった。僕なりに、それについて考えたこともあるから、たぶん、きみの予想より少しだけ、別の角度から七月を理解していると思うんだ」
そういえば、久遠が七月とふたりで会話しているところを目にした記憶は、あまりない。どちらかが雫と一緒にいる時間が圧倒的に長かったせいだろうが、考えてみれば、まるで伝言ゲームの順番を守るように、雫を挟んで言葉を伝え合っていた印象がある。
アルファ同士の付き合いは、そういうものなのだと漠然と思っていたが、長年、ともにいたふたりの間に、雫の知らない独自のパイプがないことは、不自然だし、不思議でもあった。
「たとえば七月の背中には、古傷がある。なぜ、七月がああも頑ななのか。きっと、きみを必要以上に好いているからだと、僕は推測する。七月がきみにかき乱される理由も、たぶん僕なりにわかるつもりだ」
「それは……」
七月に日々のすべてを打ち明けていることを、雫は久遠には知らせていない。いつ着火するかわからない泰衡の癇癪対策であることも、余計な心配をかけたくなくて、雫も七月も、久遠には黙っていた。雫が口ごもると、久遠は付け加えた。
「誤解しないでもらいたいんだけれど、今話したことについて、七月から直接聞いたことは、何ひとつないよ。だから推論なんだけれど」
踏み込んだ話に雫が慄いた気配を察し、久遠は話す速度を少し落とした。
「音瀬のためにならないことは決して漏らさないことを徹底するほど、七月は忠誠心のある人間だ。でも、音瀬が旧家である以上、使用人や下働きの人間にいくら口止めをしても、どこからか尾ひれのついた噂が漏れ出るものだ。僕の拾った多くのものは、そういう経路で色が付いていることも承知している。きみに対して泰衡さんの当たりが必要以上に強いことも、七月が誰にも言えない何かを隠しているだろうことも、ぶっちゃけ想像の範囲を出ない。誰にも踏み込まれたくない問題だと思ったから、今日まで触れるつもりはなかったけれど……」
久遠は一度、言葉を切ると、まっすぐ雫を見た。
「七月が直接、僕に語った数少ないエピソードに、きみと初めて対面した時のものがあるんだ。何の縁からか、突然、預かることになった、か弱く小さな生き物を、どうやって生存させればいいか、かなり悩んだそうだよ。七歳になる間際に音瀬家へ引き取られ、きみと出会うことで七月は新たに人生をはじめたんだ。それまでの日々を忘れてしまいそうになるほど、大切にしなければ、と思っていると……僕はそう聞いた」
久遠の話に驚いた雫は、涙を堪えた。雫という枷さえなければ、七月の人生はもっと豊かで自由なものになっていたはずだ。その可能性を潰す形で生まれてきた雫が何不自由なく生きていることに、苛立ちを覚えなかったとは、どうしても思えなかった。
「どうして、そんな話を……」
七月が、久遠にわずかながら過去を語っていた事実に、雫は小さく傷ついた。同時に、一番、傍にいてくれている久遠に、何も相談してこなかったことを自覚する。言えないことが多いからと言い訳をして、向き合うことから逃げてきた。なのに、久遠は駄目押しのように優しく訴える。
「僕はきみが大好きだからね。そのきみが、誰かと揉めているのを放っておけないよ。風邪なら長引いても数日だし、何か重大な病気の可能性もあるけれど、きみの様子から、それも考えにくい。だから……もしかして、単純に七月と喧嘩でもしたのかな? って」
「っ」
答えるより早く身体が強張り、雫は恥ずかしさから唇を噛んだ。
「お、れ……っ」
何を明かし、何を隠すべきか、七月がいないと判断もできない。震える声で言葉を濁す雫に、久遠はそっと触れた。
「無理に言わなくていい。隠しごとのひとつやふたつ、あった方が、先の楽しみが増えるだろうから。でも……」
閨房術を除いても、久遠に対し、不健全で酷いことをしていると、雫はようやく自覚した。取り繕わなければならない関係など不誠実だし、いっそ破談にすべきだろうか。泰衡は、いずれこうなることを見越していたのだろうか。あの夜以来、別の道が選べずに、雫は同じ場所をぐるぐる周回し続けている。
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