41 / 118

第15話 不在と存在(4/5)

「おれは……っ。きみが思うような人間じゃない……っ」  七月を追い込んで、苦しませていることにすら気づかない、無能なオメガだ。  雫がえづくように吐き出すと、久遠はそっと雫の肩に触れた。 「雫……」  傷が痛みを主張している。自己嫌悪で酷い気分だった。七月にも、久遠にも、謝りたいのに、もうその手段がない気がする。能天気にすべてを委ね、知らぬふりを決め込む真似が、どうしてできたのか。アルファなら、この程度、耐えられて当然だと思ったのか。アルファもひとりの人間だと、以前、七月が教えてくれたのに、言葉の意味について、何も深く考えようとしなかった。 「ね、雫。きみは七月と、全く話をしていないの?」  久遠に単純な疑問をぶつけられ、胸が詰まる。  首を横に振ると、しばし考え込んだ久遠は言葉を継いだ。 「聞いてくれ、雫。もし、きみに原因があったとしても、七月にも理由があるはずだ。どんな関係にも、光があれば、闇が生まれる。だけど、大事な人とぶつかった時ほど、事後が大切だ。もちろん、そんなことは、きみも知っているだろうけれど」  七月を失ってしまうかもしれない。久遠と疎遠になるかもしれない。ひとりで抱え切れなかったものを、ともに背負おうとしてくれた存在を、なぜ自覚しなかったのだろう。膝の上で拳を握る雫に、久遠は少し間を置いて、決然と告げた。 「きみには、ふたつの選択肢がある」  その声に雫は、縋るように久遠の方を向いた。きっとひどい顔をしていたのだろう。久遠は雫の拳に手を重ね、囁いた。 「ひとつは、このまま七月の快復を待つ。もうひとつは……七月と話をする」  ふたつ目の選択肢は、論外だった。どこにも現れず、おそらく部屋にこもっている七月と話をするなど、無謀すぎる。オメガのフェロモンに狂いかけたアルファと、同じ空間に飛び込むなど狂気の沙汰だ。  だが、今にも崩折れそうな雫に、久遠は強い声で呼びかけた。 「人は、肝心な時ほど、一歩を踏み出そうとしない。過信してしまうんだ。これほど強い絆が、こんなことで切れるはずがない、と。でも、沈黙と不干渉は時に取り返しのつかない行き違いや誤解を生む。僕はずっと、きみと七月を見てきたけれど、言っちゃ悪いがオメガに仕えるアルファというのは、いわば変わり種なんだ。とてもめずらしい。きみに、僕と七月以外に味方がいなかったように、七月にも、きみ以外の味方がいなかったんじゃないかな。それでも傍に居続けようとしたんだ。七月の、きみへの優先順位は、極めて高いはずだ。だから、雫。踏み出すんだ。きみは、七月と話をするべきだ」 「それは……」  そんなことができる状況なら、とっくにしている。雫が口ごもると、久遠はまっすぐ視線を絡め、続けた。 「今回の行き違いにどんな理由や原因があるのか、僕は知らない。でも、きみたちをずっと見てきたから、わかる。微妙な綱渡りをしている時期も確かにあったけれど、アルファとオメガの立場が逆転するような関係のまま、一緒にやってこれたのは、互いを思いやる気持ちがあったからだ」  その声が沈んでいることに、雫は驚き、顔を上げた。 「久遠……?」  久遠はまるで雛鳥でも扱うよに、雫の強張った拳を優しく包む。 「覚えておいて欲しい。きみにどんな変化があろうと、僕はきみとの約束を履行する。先日、七月の前で誓ったことを、覚えている? あの言葉は、今も、これから先も、結婚しても、ともに生きて老いてゆく間も、ずっと有効だよ。こわがらなくていい、雫。何があっても、僕はきみを嫌いにならない。七月は今も、きみを好きなはずだよ。断言できる。だから……今日、帰ったら、時間を見つけて七月と話し合うんだ」 「どうして、そんなことを、おれに……」  雫が疑問をぶつけると、久遠はちょっと首を傾げた。 「きみが好きだからさ」 「……っでも、」  久遠が見ている景色を目の当たりにするのを、雫は躊躇った。散々遠ざけて、取り繕って、無意識のうちに傷つけてきたはずだ。久遠の愛が信じられるからこそ、雫が付けてきただろう傷を確かめるのが怖かった。確かめて傷つく勇気を、くれる誰かがいればいいのに、とさえ思う。  だが、久遠は彷徨う雫を、ただ真摯に促した。 「僕が、何があっても、と言ったら、何があっても、だ。きみがどうなろうと、きみを好きな気持ちが損なわれることはない。その上で、きみの大切なものを、ちゃんと大事にしたいから……というのは、答えにならない?」  そこまで言い、言葉を切った久遠は、切なげな表情をした。

ともだちにシェアしよう!