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第15話 不在と存在(5/5)

「七月がきみと会えないというのなら、会えない理由があるんだろう。ここからは憶測になるけれど……七月のような人間が、理由もなくきみを拒絶するはずはない。もし拒むのなら、事情があると考えるのが自然だ。おそらく、きみを傷つけようとする類のものから、遠ざけようとしている可能性が高いと僕は踏んでいる。百歩譲って、一時的に仲違いしたのだとしても、喧嘩なら両成敗だろ」  断片的な情報から、真実に極めて近い場所へ辿り着いていることを仄めかす久遠に、雫は舌を巻いた。襲われた夜を境に、いくつもに分岐した可能性を脳内で試し続けることを止められずにいる雫の腹の中は、無自覚に七月を追い詰めていたことへの深い悔恨ばかりだが、今、それを久遠に打ち明けることはできない。  それでも久遠は言い繋ぐ。 「きみが七月を助けるんだ。打てる手をすべて打って、必要なら僕も協力を惜しまない。そこまでして、結果が裏目に出たとしても、僕がきみを貰い受ける未来は変わらない。きみを心から愛している。だから、いっておいで、雫」  久遠の目には、雫の伴侶となる覚悟と自覚がはっきり宿っていた。 「……ありがとう、久遠」  泣きべそをかくまいと俯き、そう漏らすのが精一杯だったが、久遠の言葉に感謝していた。雫の知らないところでひとりきり、誰にも悟られないように自らを奮起させてきた七月が、どれほど険しい道を歩いてきたか、想像すらしようともしなかった。オメガであることに苦悩するあまり、アルファであることに苦しんできたかもしれない七月を、少しも思いやることができていなかった。それは雫の罪だ。あんな副作用の強い発情抑制剤を持ち歩いてまで、ともに歩もうとしてくれていた七月を、見捨てることなどできない。 「僕の助けが必要な時は、いつでも言ってくれ。力になるよ」 「久遠……本当に、何と言ったらいいか……」  本当は、一緒にいて欲しい。七月と会って、また暴走されたら、次はうなじを噛まれるかもしれない。だが、七月の矜持を守るには、雫がひとりで出向くしかないだろう。 「きみは、おれを焚きつける天才だ」 「雫は、僕に愛される天才だからね」  久遠はころっと笑い、あっけらかんと返す。久遠の気持ちが痛いほど心に沁みた。 「きみらは異父兄弟だ。互いにひとりきりの、家族なんだ。そういう絆は脆いようで、非常に強い。今回の件が、関係を深める機会になることを願っているよ。かつての僕らが、そうであったように」  七月の暴走未遂は、アルファとオメガが、血の絆を容易に踏み越えることを意味している。すべての可能性を受け入れ、飲み込み、進むしかない。七月とともに、久遠と歩く未来の扉を開けられるのは、雫しかいない。 「今は、まだ大丈夫だけれど……どうしても駄目だった時は、きみを頼るよ、久遠」  目を背けていても、何も解決しない。第二種性別判定でオメガと判明してから、久遠以外のアルファの級友たちから、露骨に嫌な顔をされることが増えた。オメガというだけで忌まれる理由がわからなかったが、今は、アルファの犠牲の上に無自覚のまま存在する雫が、どれほどの脅威となり得るか、理解できる。 「おれ、酷いおこないをしていたのかもしれない……ごめん、久遠」  七月だけでなく、久遠にも、きっと想像以上に過酷な我慢を強いている。なのに、久遠は雫がいいと言う。その気持ちに応えたかった。 「アルファは、きみが想像するより、ずっと強靭にできている。少しぐらいめげることがあっても、きっと大丈夫。レジリエンスが優れているところも、アルファの特性のひとつなんだ」  久遠はどこか遠くを見るように瞼を伏せ、重ねた指先でそっと雫の手の甲を撫でた。愛撫のようで、甘い感覚がそこから広がってゆくが、決して不快ではない。雫が手のひらを上へ向けると、指を交差し、握り返される。 「……おれ、やってみるよ、久遠」  あれほどの苦しみの中、身喰いをしてまで止まってくれた七月には、言うべきことを言うべきだ。幼い雫を夜が明けるまで探し回り、与えうる限りの愛情をくれた七月を、家族として、放ってはおけない。そのために、しっかりした準備が必要だとしても、できる限りのことを、雫はまだ試していない。 「つかまえて、謝って……それから話をしたい。七月と」  七月が健在だった頃は、過剰な触れ合いの気配を察知すると、すかさず警告を出してくれていた。雫が気づかないほど自然な牽制を、七月は久遠以外のアルファだけでなく、久遠に対してもおこなってきた節がある。だが、これからは、雫がその判断をするべきなのだ。七月がかつて言っていた、大事なことを話す相手を選ぶべき時がきていた。 「歩み寄ってみる。きみの言うとおり。おれが、そうしたいから……」  必要なことを、七月に伝える。  そして、久遠のもとへ、帰る。  その先にどんな未来が待っていようと、雫には進む義務があった。

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