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第16話 七月(1/5)
宵を迎える頃、雫は邸内にある七月の部屋を訪れていた。
「七月、いるか……?」
遠慮がちに扉を叩き、耳を澄ますが反応がない。雫が再び扉を叩こうとした時、中から何かを引きずるような音がして、扉が開いた。
「……雫さま」
隙間から、七月の顔が半分、覗く。途端に流れてきた、あの夜の記憶と重なる濃い匂いを吸い込んだ雫は、逆行すまいと強く踏みとどまった。
七月の、仄かに朱い眦。乱れた髪は鈍色の光沢を帯び、左手首にはいい加減に包帯が巻いてある。その上から、カモフラージュでもするように、雫の部屋より持ち去った上掛けで包み、その端を握っていた。シワだらけのシャツの開かれた襟からは、幾度も電撃を受け、青く変色した鬱血痕の残る首元が露わになっている。
「あ、その……っ」
「ご用件を、伺います」
雫が怯む隙を与えず、七月が尋ねる。突然の来訪者を、従者の義務から対応せざるをえない空気だった。
「さ、斎賀准教授から伝言を預かった。「急ぎのものをクラウドに上げておくから、調子のいい時にチェックしてくれ」って……。必ず本人に伝えるよう、言われたんだ」
何度も脳内で反復した言葉を繰り出す。昼過ぎに、久遠とともに斎賀准教授の研究室に寄ったところ、七月はしばらく休むと一報を入れたきり、何のフォローもしていないことがわかった。雫は、七月が性質の悪い感冒に罹っていることを念押しし、口実が欲しくて、伝言を引き受けた。
「ラボに寄られたのですか?」
仕事の話になると、七月は少しだけ表情を変化させた。
「うん。気になって……。勝手に、ごめん」
「いえ……助かりました。すぐに確認しますので」
七月が扉を閉める気配をさせ、雫に身を引くよう促す。が、雫は半歩、踏み出した。
「七月……っ」
途端にぐらりときて、扉の外の壁に手を付く。七月の表情がみるみる曇るのを目にしながら、雫は食い下がる。
「伝言は口実で……きみと話がしたいんだ」
眉をひそめる七月に、雫は言葉を紡ぎ続けた。
「この間のこと……ひとりで背負わせてしまって、ごめん。きみなら絶対に大丈夫だと、勝手に思い込んでいた。アルファだって人間だと、きみに教えてもらっていたのに、その意味を深く考えもせず、何も知ろうとしなかった……ごめん。い、痛かっただろ……? これからは、気をつける。だから……っ」
「なぜ、謝るのですか」
「え?」
沈黙を埋めるように捲し立てはじめた雫を、七月は遮った。長々と講釈を聞かされるのは御免だと言う態度だった。
「怖い思いをされたのは、あなただ。今も怯えていらっしゃるではありませんか」
「それは……」
口を開こうとすると、七月に再び先を制される。
「――あなたは」
そんなものが欲しいのじゃない、という態度の七月に、雫は心臓の上に指先を突きつけられる。雫が二歩ほど下がるのを見て、七月は続けた。
「オメガなのですよ。ご自身が何をされているのか、ご自覚ください」
非難とともに扉を閉じようとした七月に、雫は思わず飛びついた。
「っ待て……っ」
途端に床がうねり、平衡感覚が揺らいで七月に縋ってしまう。
「お願いだ、拒まないでくれ……っ」
七月を追い込み不安定にさせた発端の雫が、再接触を試みること自体が傷を抉る行為だと自覚している。拒まれるのが当然で、突如、訪問する雫の行動そのものが、非常識な愚行と非難されることも承知している。
だが、実際に会ってみて、この惨状に見ぬ振りをしたら、もう七月は駄目になってしまう気がした。
「きみと話がしたい。話をするだけだ。だから……っ」
「ご自身を粗末に扱う、その癖を直してからおいでください」
「きみを失いたくない……っ。久遠と約束したんだ。きみと、ちゃんと話すと……」
頼み込む雫に、七月はあからさまな嫌悪の視線を向けたが、雫は引き下がらなかった。たとえ雫が七月にとって相応しくない相手でも、オメガとして大きなリスクとハンデを負っていたとしても、誰かが引き止めなければ、立ちゆかない時がある。かつて幼かった雫が七月に守られたように、誰かが七月を守らなければ。
そう考え伸ばされた雫の手を、七月は煩げに振りほどいた。
「あの方を引き合いに出せば、何でも通るとお思いですか?」
「そうじゃな……っん!」
食い下がった雫の頤を、今度は七月の右手が掴む。指先が頬に食い込み、恐怖に息が詰まった雫は、目を瞠り七月を見返すしかない。怯える雫に、七月は苛立ちを滲ませた。
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