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第16話 七月(2/5)
「抑制剤の大量投与……離脱症状が起きますよ。久遠さまにどう言い訳なさるおつもりですか。あなたの向こう見ずに付き合わされる、あの方の身にもなってさしあげてください」
叱る声と同時に、扉が少し外側へ開く。途端に淀んだ七月の部屋の空気が本格的に漂いはじめ、雫は身体を強張らせる。
上限ギリギリの量のオメガ用のフェロモン抑制剤と発情抑制剤を服用し、保険をかけた上で雫はここにきていた。その無茶を諌め、七月は詰る。
「まだ傷も癒えていないのでは? なのに、ご自身を襲ったアルファと仲直りをしたいと? 久遠さまを差し置いて? それとも我々の関係を話した上でのことですか?」
「違……っ」
呻いても、七月の指は外れない。どころか、七月は雫に対し、揺らめくほどの怒りを見せた。
「いい加減にご自覚ください。あなたは、発情しかけた前科のあるアルファの部屋を、夜半にひとり、訪れているオメガなのですよ。強引に引き入れられて、押し倒されでもしたらどうするつもりですか。旦那さまにでも助けを求めますか? それとも……もしかして、味をしめてしまわれましたか? 半分血が繋がった兄に襲われる、倒錯的な妄想でもしましたか? それは、困ったことですね……?」
「っ違う、おれは……っ」
「私が何を考えているか、あなたに想像できますか?」
「っ」
導火線に火がつく瞬間を見極めるような、容赦のない眼差しに晒される。左腕に握られた血の匂いがする上掛けが、王座につく者のマントのように垂れ下がり、床に広がる。歪な笑みを浮かべ露悪的に振る舞う七月を、雫は全力で睨み返した。その雫を、七月は王のような視線で睥睨し、痛いところを容赦なく突く。
「理性で否定しても、身体が覚えているのでは? しらを切るなら思い出させてさしあげましょうか? ああ……それとも、久遠さまでなく、私を選んでくださいますか? かつての、あなたの母ぎみのように」
「――っ……!」
母、という単語が鼓膜へ届いた刹那、雫の脳裏は真っ白になった。
気づけば、ばしっ、という鈍い音とともに、七月の片頬を張り飛ばしていた。
弾みで雫の頬を掴んでいた七月の手が外れ、雫が手のひらに重い衝撃を感じる。痛みに骨までじんじんした。きっと七月はもっと痛かっただろう。
「母を……侮辱するな……っ」
怒りか屈辱か、判別のつかない炎に腹を抉られる。面と向かって浴びせられた性的な侮辱の洗礼は容認できても、雫に命をくれた母を悪く言われることだけは、我慢できなかった。癇癪ひとつ制御できない未熟さこそ責められるべきだ。羞恥を覚えた雫は、頭に上った血が冷めるまで、しばらく息を乱していた。
「きみの……大事な人でもあるだろ……っ、そんなこと、言うなっ」
怒鳴ったつもりが、絞り出すような声になる。顔を上げると、七月は明後日の方角へ朱くなった頬を晒し、唖然としていた。
「……っ」
振り上げた手を下ろせず、雫は、もう片方の手で罪を隠すように胸の前で握った。謝ることもできず、しどろもどろになり、七月と話すために、頭の中で組み立ててきた理屈は吹っ飛んでいた。現状、雫の浅い理解では、到底、七月は救えない。謝ることも、取り消すことも、意味がない。起きたことは、受け入れるしかないのだ。
「きみが……苦しんでいるのに、何もできない。おれは、久遠に操を立てている。久遠と添い遂げると決めている。久遠のことが好きだからだ。その気持ちに変わりはない。でも……っ、こんな状態のきみを放ってはおけない。オメガを辞めることも、きみを手放す決心も、できない……っ。きみに、触れられると……っ」
紡ぐ声が震え、魂の純潔が穢れてゆくのを自覚する。誤魔化し続けてきたある事実が、雫を罪へと押し流そうとした。
「正直、どうにかなってしまいそうな時がある……っ。これが何なのか、わからなくて怖い。運命の番いだなんて言葉、信じないつもりだったけれど、もし、きみが……っ、そうなら、おれは……っ」
顕在化した矛盾など、灰にしてしまいたい。だが、この気持ちが何だろうと、雫の一部であることは事実だ。七月に抱く執着は、久遠を想う清らかさはなく、心の中で異質な光を帯びている。発露の許されない欲を持て余すことが、これほど残酷に心身を蝕むことを、雫は知らずにいた。
「きみを……想像して、ひとりで、したことも……っ。おれは、変、なの、だろうか……? 七月と、し、してから……っ、きみ、のことが、気になって、お、おかしく……っ」
「雫さま」
その時、七月が初めて雫の握られた拳に触れた。
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