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第16話 七月(3/5)
「……いけません」
爪が食い込んだ雫の拳を、七月がそっと両手で包む。折れ曲がり固まった指関節を、ひとつずつほどきながら、七月は柔らかな声を出す。
「ご自分を、大切になさらなくては……」
七月とともに閨房術と称した接触を進めるうちに、雫の身体は明らかに変化しはじめた。久遠といる時には決して起こらなかった、艶やかな感覚が雫を浸潤する。否定し、誤魔化し、目を背け続けてきた、わずかな違和感を拭えない。これがどういうことなのか、なぜこうなるのか、誰にも説明がつかない。
「っきみ、に、比べたら……っ」
七月の自傷に比べれば、こんなものは擦り傷だ。悔し紛れに絞り出した雫の声に、七月は穏やかに反応した。
「――そうでございますね」
「打って、っご、め……っ」
同時に、駄々を捏ねて困らせてばかりいた昔のことを想起した雫は、赤面した。七月を前にすると、いつも肝心な時に甘えて頼ってしまう。そんな雫だから、きっと七月は遠ざけたいと考えるのだろう。
七月は雫へ向き直ると、穏やかに語り出した。
「父が自死したその日、旦那さまに選べと言われ、わけもわからず音瀬家へゆく選択をしました。そこで、母もまた産褥で死んだとわかり……独りになったはずの私が、生まれたばかりのあなたと引き合わされたのは、その夜のことでした」
「っ……」
残酷さに息を呑む雫に、七月はただ事実を告げる声で続ける。
「数週間後、あなたは……初めて澄んだ目で、私を見上げていましたよ。まるで世界の謎のすべてがここにある、とでも言うように。毎日が怒涛のように過ぎ、気づけば私は……。でも、母が私を産まなければ、あなたがこの家で比べられ、肩身の狭い思いをすることもなかったでしょう。父が飛び降りるきっかけにもならず、母も、もしかすると生きたかもしれない。私は、遠くなる父の背中を思い出すたびに、自分を許せなくなります。別れて終わるはずだった身分違いの恋が、私がいたことで、なまじ強く結びついてしまった。あれは不幸な事故でした。ですが、あの日を後悔しない日は、ありません」
七月は七歳になる直前だったはずだ。泰衡が年齢を言い訳にせず、七月を完全に大人と同じように、駒として扱っただろうことは想像がついた。
「旦那さまから閨房術のお話を賜った時、軽い興奮さえ覚えました。あなたに合法的に触れられる。それどころか、うなじを噛んでも、本番に至ってもいいとのお許しがあったからです。たとえ私があなたを抱いても、種無しですから、孕む心配はありません。私は番いを持てない、見掛け倒しのアルファなのです。だからこそ、あなたとどこまでも堕ちてゆける。これほど甘美な夢があるでしょうか……?」
爪痕の付いた雫の手のひらを、七月の指先がそっと撫でる。たったそれだけの仕草に胸が詰まり、雫は嗚咽しそうになった。七月に人生をもらった。困難に耐える矜持を、オメガであることを卑下せずに顔を上げる勇気を、生き抜く知恵を、生きる意味を。今の雫を雫たらしめる数多の要素、久遠と出会う前に耕された雫の土台は、七月により培われたものだ。愛ではないと七月が否定しても、雫がそこへ情を覚える権利は奪えない。
七月は雫の両手をほどくと「これでよし」と呟いた。
「私は穢れた人間です。あなたの代わりを求めて、他のオメガと試したこともありました。でも、どんなに狂い、欲していても、時間の経過とともに、うなじの噛み跡は消えるのです。どれほど想いを込めたとしても、誰と番おうとしても、完治してしまう。……滑稽でしょう? 私は誰とも番えない、子種のない、半人前以下の張りぼてのアルファなのです」
ベータとアルファの親から産まれた、突然変異のアルファ崩れ。それがどれほど特殊で過酷か、七月の絶望の深さを想うと、深淵に足を取られそうになる。
「母を奪い、父を自死させた音瀬家の後継者が、発情できない出来損ないのオメガだと知った時、私は内心、誰よりも喜んだ。あなたを奪えば、旦那さまがどんな顔をするか。久遠さまがどんな傷を負うか。想像しなかった日はありません。あなたを貶める妄想を、私はちゃんと、してきました。その末の……暴走です。ですから……」
七月は静かに沁みる声で、雫を前に冷静さを失い狂いかけた自身を否定する。
「あなたを……愛してしまったことを認めるぐらいなら、死んでしまいたい」
雫に希望を渡し続けた手を震わせ、七月は虚飾で糊塗した仮面を剥がそうともがく。
「あなたは私の宝石です。閨房術を、ただの真似事だと偽り、意のままに調教することに悦びを見出してきた私は、あなたが、発情期のこない、不完全なオメガ呼ばわりされるたびに、胸がすくような気分でした。どうぞ失望してください。久遠さまの仰るとおりです。あなたはどのオメガとも違う。特別です。私をこんな風にするのは、あなただけだ。あなたと、こうなるとわかっていたら……とうの昔に手放せば良かった」
生まれてきたことを、後悔するほど傷ついている。誰かを傷つけることでしか、負った傷を誤魔化せず、生きる術が見つけられない。そんな哀しい生き方を、いつから身につけてしまったのだろう。
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