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第16話 七月(4/5)
「なぜ、私を理解しようとするのですか。責めて、逃げ出せばいい。何も知らない顔で、正常範囲内にあろうとする私の心をかき乱し、醜い欲望を増幅させる。目を背け、克服したはずのものを容赦なく炙り出す。あなたの声がしただけで、私は満ちてしまうのに」
苦悶しながら、憎悪できずに、屈辱に心を歪ませ、耐えてきた。愛情に近い執着を持ちながら、雫を傷つけざるを得ない二律背反の感情に、どんな名前を付ければいいのだろう。
「私はあなたを、壊したくない」
震えながら告白する七月は、想像上の罪を明確に語ることで、逃げ場のない袋小路へ、自らを追い込もうとしていた。拒絶を求め、哀願する七月に、雫は絞り出すように言った。
「でも、きみは……止まった」
あの夜を、覚えている。七月の指先の温度を、どう触れ、何を残し、いつ、その感触が消えるかを、あの共振を、忘れられるはずがない。
「治るはずの傷すら、付けるのを拒んだじゃないか」
「あなたへの衝動を抑えられるはずだと、高を括っていたのです。でも、今は違う。仕える主人を襲うなど、従者としても、人としても、失格です。ましてや、あなたは私の……」
父親は違えど、血肉を分けた、同腹の兄弟だ。業が深い分、罪も重い。
「捨て置いてください、雫さま。あなたは私を放置すべきだ。今回ばかりは、久遠さまのご判断を疑います」
破棄されることを願う七月に、雫は首を横に振ることしかできない。
「いやだ」
「あなたのためではありません。プライドの問題です」
「きみのいない未来なんて……嫌だ」
諦観と自己嫌悪と自己不信に喘ぐ七月は、雫が手を伸ばすのを疲れた様子で許したが、引いた線からは、頑なに踏み込もうとしなかった。
「こんなことは許されません。婚約者への至誠を捨ててまで、することじゃない」
「久遠は、おれが、きみと話すことを望んだ。おれなら平気だ。だって、あんなの、全然、少し、びっくりしただけで……」
「平気じゃない時にしか、あなたは「平気」とは言わない」
ぐっと言葉を詰まらせる雫から、七月はなおも逃れようと身をよじる。合わせ鏡のように互いの気持ちが重なる部分を知ってしまった以上、七月の主張したとおり、もう元へは戻れない。ともにいたいのなら、新たな方法で、互いの均衡を維持し続けるしかない。
アルファをそこへ至らせるには、オメガとして振る舞うしかないのだろうか。葛藤の末に、雫は極めてオメガ然とした狡い物言いを決めた。
「おれたちは、ともに生きたい」
声にした途端、七月の中で何かが、ぱりん、と音を立てた気がする。
「せめて西園寺家に嫁ぐまでの間でいい。きみの意にそぐわないことは承知している。ただ……おれを置いていかないで……。捨てていかないでくれ、七月。お願いだ……。おれの前から、いなくならないでくれ……」
「私は……」
七月は深呼吸とともに静かに目を閉じ、上を仰いだ。七月の手が、いつしか雫の手を握り返し、縋りながら震えている。中にあるものが壊れないように込められたわずかな握力に、雫は唇を引き結び、七月を待った。
「キスを……いただけますか」
震える声で尋ねられ、雫が見上げると、七月は泣きそうに表情を歪め、視線を落とした。
「あの夜を、ちゃんと覚えていないのです。興奮しすぎて、曖昧なところが多くて……。ですから、確認させてください。あれは、本当にあなただったでしょうか……?」
子どもの嘘のような言い訳だったが、雫は真摯な色を選り分けてしまう。七月の声が、鼓膜の内側で爆ぜ、乱反射するのを感じながら、雫は頷いた。
「……うん」
身体に傷が刻まれた時、わずかでも陶酔しなかったか。鏡で傷跡を確認するたびに、これが消えなかったら、と妄想しなかったか。まったく嫌になるぐらい、狡猾な思考回路だ。オメガの最も穢れた部分に、雫は気づいてしまった。アルファの劣情を利用し、欲しいものを手に入れる意志。オメガがアルファを選ぶ、度し難い手段を、本能に近い場所で理解してしまう。
七月の肩につかまり、背伸びをすると、わずかに屈んだところにある唇に、そっと雫は唇を重ねた。七月が求めるのは謝罪でも撤回でもなく、受容だ。七月のすべてを受け入れ、許しを与え、肯定する。
「あれは、おれだったよ、七月」
数秒後、名残り惜しげに離れた雫は、そっと呟く。
「っ雫さま……」
唇を震わせ、七月の腕が強く雫を抱き竦める。渾身の力に息が詰まりながらも、雫は七月の好きにさせた。
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