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第17話 予兆(1/2)

(——また、変わった……?)  その朝、久遠は運転席に七月の姿を確認すると、雫の隣りに乗り込み、明るい声を出した。 「仲直りしたみたいだね。何よりだ」 「久遠のおかげだよ」  はにかむ雫に久遠が「良かった」と頷くと、七月が会釈をした。 「久遠さまにも、ご心配とご迷惑をおかけしました」 「いいんだ。きみらが揃わないと、僕も調子が出ないから。言っちゃ悪いが、柏木さんの運転は慇懃すぎて悪酔いしてしまう」  軽い声音で茶化すと、直属の上司の悪口を言われた七月は困った顔をした。 「そんな風に言ったら悪いよ」  雫が久遠を窘めた時、車内の空気がふわりと変化した。笑う雫の表情に、久遠は見惚れそうになる。知らないふりを装ったが、脳裏で警鐘が鳴り出していた。ふたりの間で何らかの合意形成がはかられたことが、手に取るようにわかる。こういう時の七月は強い。七月の様子を受け入れる雫も、とても魅力的だった。 「雫はずっと、落ち込んでいたからね。復活おめでとう、七月」 「ありがとうございます、久遠さま」  極めてわきまえた声を七月が発した。どこか、芯が一本、通ったような安定感だった。 (妬けるな……でも)  アルファとしてひと皮剥けた七月に信頼を寄せる雫の視線が、羨ましいだなんて言いたくない。今すぐ雫の唇を奪い、何があったのか洗いざらい打ち明けさせたいが、同時に久遠の助言から、関係性を進めた七月と雫の間の空気を、壊したくなかった。 「頼られるのも、悪くないね。いつでも相談してくれ、雫。どんなことでも」  嫉妬も忘れて見惚れるほど、雫は美しい。七月との間に築いてきた関係性を、久遠が横取りし、かっさらうのは簡単だ。でも、久遠が欲しいのは、そんな安っぽいものじゃない。 「ありがとう、久遠。きみの助言がなければ、おれも七月も、どうしていいかわからなかったよ。本当に、感謝している」 「キスひとつで、返してくれればいいさ」 「えっ……?」 「冗談だよ。それはそうと、七月の快気祝いをしたいな」  消耗する雫を見るのがつらかった。だから、ハイリスクを承知で話し合うよう雫に促したのは、間違いなく久遠の良心から出た選択だ。これほど短期間に雫の匂いが次々と変化するのは、それだけ雫が置かれる状況が目まぐるしく変わっている証拠だ。音瀬家の周辺から引っ張ってきた情報も、わずかではあるが、それを裏付けている。久遠は、雫がオメガ用のフェロモン抑制剤及び発情抑制剤を多量に摂取したことを承知していた。知った時は心臓が縮んだが、無策のまま七月に会いにゆくよりはましだと自分を納得させ、不問にしようと決めたのは今朝のことだ。  雫が何かを隠している。あるいは何かに思い悩んでいることは、少し前から把握していた。どのような形かはわからないが、七月が関わっているだろうことも、時折、見せる両者のぎこちない雰囲気から察せられたが、久遠はあえて踏み込まなかった。大切なのは、雫との未来だ。元気になった雫と一緒に、時には七月を交えて、将来の時を過ごす。最優先は、雫とともに、自由に人生を楽しむことだ。  しかし、雫が発した不安定な声に、久遠の心の雲行きは一気に怪しくなった。 「七月。悪いけど、今日は芝ヶ丘公園へいってくれないか」 「……二限を欠席なさるのですか?」  七月は極めて自然な声で雫の意志を確認したが、久遠は幾ばくかの緊張を感じ取った。 「そのつもりだ。……久遠。実はきみに、話しておかなくちゃならないことがあるんだ。少し、時間をもらっても、いいだろうか?」  ひりついた緊張感が伝わってくる。雫と七月の間にある問題が解決したのは事実のようだが、だとすれば、おそらく久遠に伏せられていた事実の開示があるだろう。音瀬家に関わり合いのある者らから裏取りを試みても、何も出てこなかった。即ち、極めて個人的な約束ごとである可能性が高い。情報を持ち合わせていない以上、提案に乗るしかない。 「いいよ。天気もいいし、久しぶりに話そう。七月も、いいかな?」 「おふたりがよろしければ、私はかまいません」  七月の意を受け、久遠は「じゃ、決まりだ」とだけ言い、車の進路を七月に任せ、雫の手を緩く握った。指先が冷えているのは、薬の大量投与の後遺症だ。目眩やふらつきはどうにか回避しているようだが、本当なら座っているのさえつらいだろう。何を言われるか、原因になり得る事象を脳内でリスト化する。最初に匂いが変化してから、雫はずっと久遠に何かを告げたそうにしていた。そのせいか、上の空だ。

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