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第18話 前哨戦(1/1)
蒼穹の下、芝生を踏みしだき、雫は草いきれを吸い込んだ。
ドーム球場三つ分ほどの敷地面積を持つ芝ヶ丘公園は、大学キャンパスのすぐ裏に隣接した開放感のある憩いの場だ。広大な芝生に覆われた公園の中を縦横無尽に天然コルクで舗装された道が走り、その道沿いを落葉樹林が並走している。道に縁取られ、幾つかに分断された芝生が眩しい青さで茂る中、雫はふらつくまいと両手をきつく握り、慎重に丘の真ん中付近にある大理石製の西洋風東屋を目指す。
いつもより息が切れるが、陽光を浴びると燻んだ心中が清められる気がして、悪くない感触だった。久遠と七月と連れ立ち、西端の丘のひとつを目指して歩いていると、途中、七月が横にきて耳打ちした。
「雫さま。久遠さまに……」
「うん。おれから、話すから……。それでいいか?」
「かまいません。お任せします」
照りつける太陽を遮る純白の西洋風東屋に、芝生の緑が良く映える。雫らが、東屋の中に設えられているベンチに腰を下ろすと、気の抜けた明るい電子音の曲が遠くから聴こえてきた。どうやら、アイスクリームの移動販売車がきているらしい。
「久遠、おれ……」
どう切り出すべきか散々迷い、結論が出ないまま呼びかける。
「ん……?」
「あの、っその……話、なんだけれど……」
のんびりした久遠が振り返るのを待っていると、ふと切り出される。
「雫、アイス食べないか?」
「え?」
体調が優れない中、うだるような日中の熱に侵された雫は、急に喉が渇いていることを自覚する。意表を突かれて思わず顔を上げると、久遠は優しげな顔で、芝生の小山になっている向こう側を指差した。
「量り売りのワゴンがきているみたいだ。ほら『日替わりおすすめ〜♪』って曲がかかっているだろ。七月の快気祝いもしたいし、せっかくだから、食べながら話そう。おつかいを頼まれてくれたら、僕のきみへの好感度が、爆上がりするんだけれど……?」
正直、この暑さの中、体調不良を押して歩くのはひと苦労だ。だが、雫はあえて立ち上がった。踏ん張っても足元が覚束ない。昨夜、摂取した薬の離脱症状のせいだが、リスクは覚悟していたし、後悔など微塵もなかった。せめて久遠を傷付けず、環境を整えることができれば、と考えた雫は、頷いて立ち上がった。
「わかった。ちょっといってくるから、その間に好感度を上げておいてくれるか?」
「できればコーンに乗っているやつがいいな」
「了解。七月も、コーンでいいかな?」
「はい。ですが……」
「おれが、いきたいんだ」
心配性な表情で「アイスなら私が……」と腰を上げかけた七月を制して、雫は西洋風東屋から日差しの照りつける芝生へと踏み出した。久遠のことだ。何かを察し、心の準備をする時間を設けてくれたのかもしれない。
ふたりを背にし、感覚の覚束ないうねる芝生を踏みしめ歩くと、すぐに汗が吹き出す。戸惑う七月を置いてきたことを少し後悔したが、夏の光をたっぷり含んだ空気を思い切り吸い込むと、吐き気も目眩も軽くなる気がする。ぐらぐら世界が傾き回るが、車内で久遠が手を握ってくれたおかげで、少し症状が和らいでいた。
ワゴンの止まるコルク道の路肩の縁石を、躓かないように慎重に跨いだ雫は、落葉樹林の木陰でアイスの列をつくっている、子ども連れの家族が数組いる最後尾に並ぶ。七月と久遠のいる背後を、一度も振り返ることができなかった。久遠が何かを推察、あるいは把握している気配がして、視線を絡めるのが少し怖い。
音瀬家だけに通知されるはずの婚前診断の結果がリークされたことから、久遠が他の情報を入手できていないとは、思えなかった。だが、閨房術については、泰衡と、七月と、雫自身しか知る者はいない。もし、聞き出そうとしたとしても、七月が雫を差し置いて喋ることはないから、もどかしい思いをしているだろう。
だからこそ、雫自身の口から伝えることが重い意味を持つ。
雫が臆したのは、久遠の想定範囲外にまで、はみ出てしまっただろう七月との間のアクシデントを、告げなければならないからだ。昨夜、摂取した薬の副反応を隠しているとはいえ、いつもと様子が違う雫に気づかないほど、久遠は鈍感ではない。黙っている理由を考え出すと疑心暗鬼に陥りそうだ。雫は思考の渦に呑まれまいと、余計な考えを頭の隅に追いやった。
(ちゃんと言うんだ。誤魔化さずに、伝えなければ)
何があろうと気持ちは変わらないと、互いに言い合ったばかりだ。
それ以上を望むのは我が儘だ、と雫はワゴンの列の最後尾で、ぼんやり都合のいい期待ばかりする自分を叱った。
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