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第19話 駆け引き(1/3)

「きみを困らせている自覚は、あるんだ。七月」  久遠の言葉に、七月は自分が途方に暮れた顔をしていることに気づいた。  雫がいなければ簡単に迷ってしまう、哀れな犬。そう解釈されても否定できない。長年、泰衡に判断を丸投げし、保身から忠義を捧げるふりをし続けてきた、アルファにあるまじき七月の追従を、久遠の眸はどう映すのだろう。 「……久遠さま」 「「さま」はいらないよ」  天気の話をする空気ではないな、と七月は遅れて悟る。久遠が雫を飛び越して七月と話すことなど、片手で数えても余る回数だった。逆に言えば、今まで頑なに守り続けてきた順番を飛び越さざるを得ないほど、追い詰められているのかもしれない。 「ところで、七月は婚前診断をどう思う?」 「どう、とは……?」  言葉が省略されすぎていて、意図を汲みかねた七月が尋ねると、久遠は低い声で言った。 「あんな紙切れ数枚で誰かの未来を決めてしまうなんて、大それたことだと思わないか。でも、占いと同じで結果が出てしまうと……人は弱い生き物だ。是非によらず、影響を受けざるを得ない。僕も、雫も。少し……過酷だ」  久遠は憂鬱そうに俯いた。 「きみは、誰かと婚前診断を試したことは、ある?」 「いえ……」 「雫とも?」  久遠の声が少し強まる。七月が言い淀み沈黙すると、久遠はさらに言葉を足した。 「人のプライバシーに立ち入る真似をしたいわけじゃないんだ。ただ、僕と雫の結果はオール「F」だったけれど、他の誰かと試した結果も同じだとしたら……診断そのものが間違っていると、考えられないか?」 「雫さまが特殊だと、仰りたいのですか?」 「いや。診断方法に問題があるかもしれない、という話だ」 「それは……」  その可能性について、七月は完全に失念していた。いつもなら、きっと久遠と同じように考えただろう。雫が絡むとつい甘くなる、と自分を省みた七月の背中を押すように、久遠は続ける。 「オール「F」なんて、珍しすぎるだろ? 他の誰かとの診断結果と比較してみなければ、到底、納得できない。少なくとも、僕は」 「そうですね……。お話を伺ったあとでは、七月も久遠さまに賛成です」  泰衡によりもたらされた、久遠と雫の婚前診断の結果がオール「F」であると判明した時、七月は少なからぬ驚きとともに、安堵した。数年前、泰衡に命じられ、オメガの調教に手を染めはじめた頃、七月は、雫をはじめ、様々な調教相手と頻繁に婚前診断を試した。どのオメガとも、相性が「F」、またはそれ以下の判別不能な最低ランクだとわかると、七月自身に問題があるのだと理解したが、その事実を受け入れるまで、一年以上かかった。 「きみは、雫のことが、本当に好きだね」  俯き、思考を巡らせている七月に、不意に久遠が笑みを見せた。 「半分、血が繋がっておりますから……」 「それだけじゃない。きみらの間にある美しい空気が、少し妬ましくなるほど仲がいい。でも、それは「血」だけでつくり上げられるものじゃない。互いに不断の努力を続ける意志がなければ、崩壊する可能性があるものだ。想い合っていなければ、こうした関係は続かない」  断ずる久遠の強い語尾に、七月は少し驚く。オメガが別のアルファに伴われている時に、弱みを晒すアルファは難しい。それとも、七月が「ただのオメガではない」ことを、久遠は把握しているのだろうか。 「雫さまは、久遠さまのことを大切に想われています。久遠さまの言葉と想いを、とても大事にされておいでです。数枚の紙切れよりも」 「……そっか」  七月が念押しすると、久遠は噛みしめるように安堵の表情を浮かべた。そのまま顔を上げ、七月へ自然と笑いかける。 「それなら余計に「さま」はいらないよ」 「それは……」  多少の辟易とともに、七月が視線を上げると、久遠はまるで悪戯をする子どものような表情になった。 「きみは雫のたったひとりの家族だ。いずれ僕の義兄になる。だから「さま」はいらない。と……以前にも言ったことがあったけれど」 「覚えております」  七月は努めて無表情のまま頷いた。  まだ中等部へ上がる前の久遠が、何度か音瀬邸詣でに訪れた際に、雫が何かの拍子に席を立たねばならなくなった時のことだ。七月があくまで雫を支えるだけの人間であると、久遠に理解させる最初の切っ掛けになった出来事だった。 「あれ以来、きみは決して流儀を崩さないけれど……せめて雫と三人の時だけでも、呼び捨てにしてくれないか? 僕らは、同じアルファだ。ましてやきみは年長者なのだし」 (——同じ、アルファ、か……)  痛いところを突いてくる、と七月は久々に反感を覚えた。親愛でコーティングされた本音を鵜呑みにするほど危険なことはないと、七歳になる直前に音瀬家へ入った七月には、既に刷り込まれている。 「雫さまが嫁がれる家の次期当主となられる方ですから、そういうわけにはまいりません」 「そんなに信用ならない?」 「そういう問題ではありません。けじめです」 「じゃ、せめてふたりだけの時ぐらい……」 「久遠さま。いくらあなたでも、これ以上のお約束は、いたしかねます」 「……つれないな」  久遠は参った、と言いたげに苦笑した。美しく整った顔にほんの少し情けない表情を浮かべるだけで、気を許されていると錯覚しかける。が、そもそも泰衡と、久遠の父親の西園寺恒彦が許すはずがない、と七月は心中で確信していた。彼らには明確な階級意識がある。オメガに仕えるアルファ崩れが大きな顔をするのを、黙って見過ごすはずがない。

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