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第19話 駆け引き(2/3)
久遠は七月の拒絶を受け流すと、大きく話題を変えた。
「実を言うと、さっきは……怯んだんだ。正直、雫が僕に何を打ち明けようとしているのか、知るのが怖い。何かをひた隠しにしているのは、それとなくわかるけれど、いざとなると悪い想像ばかりが過ぎって、僕自身が、どうかなってしまいそうなんだ……」
憂鬱そうな影が久遠に宿る。これから久遠は、雫と七月の裏切りを目の当たりにすることになるが、その予兆を正確に掴んでいるように、七月には見えた。
「きみの口から、ヒントが貰えれば、とさえ考えるよ」
深刻な様子で苦しみを紛らわそうと、久遠は膝の上で両指を祈るように組んだ。
「僕たちは、合わせ鏡のようだと思わないか? 七月。きみと雫の年月を、僕は超えることができない。きみも、きっと僕らの絆を羨む時がくるだろう。でも僕は……」
言いかけて、口を噤んだ久遠を、七月はまっすぐ凝視した。
「雫を好きな気持ちだけは、負けない」
「あなたは、雫さまの伴侶となられる方です。距離で言えば、私の方が、遠いはずです」
七月は答えながら、久遠が言わせたがっている気配を悟り、応えてしまう自分に苛立った。久遠のこういう、掴みづらく先回りをするところが苦手だった。何を考えているのか読めたとしても、対応が間に合わず、年不相応な鼻持ちならなさを感じるのは、どこかで年若い久遠を見くびっているせいかもしれない。
『七月。おれ、友だちができたんだ……!』
幼稚舎に入学した年の初夏、誇らしげな興奮を含み、はにかみながら雫から紹介を受けた久遠は、もう大人然としていた。変な虫が付くのを警戒した七月が素性を尋ねると、あの西園寺グループの嫡子だと判明した。判断を仰ぐため、泰衡に報告を上げると『でかした!』と小躍りせんばかりに頷かれたのを覚えている。くれぐれも西園寺グループの次期総裁候補の機嫌を損なうことのないよう、万全の体制で臨めと命じられた雫が、失望を湛えた目で頷いた日を、まだ昨日のことのように思い出せる。
子どもの遊びの延長線上の、一過性の熱の可能性も考慮に入れ、雫を幻滅から遠ざけようと、その後、七月は神経を尖らせた。が、当の久遠は音瀬家への招聘に快く応じた上、泰衡に礼を尽くして雫との交際を認めてもらえるよう、正面から申し込んできた。同行した保護者の恒彦は、六歳になったばかりの息子が言い出した我が儘に、一瞬、表情を曇らせたものの、是非については触れず、泰衡の自慢話を針のような目で受け流していた。
七月の知る限り、それ以来、久遠は誰にも目移りしたことがない。第二種性別判定で雫がオメガだと判明した時は、浮き足だった級友らの前で、雫との交際を公にし、全方位から飛んでくる好奇の視線を跳ね除けてみせた。おかげで雫を中心に立った不穏な漣は、急速に終焉し、神経をすり減らしていた七月も助けられた。
その手腕を、七月は公平に評価すべきだと思っている。
「僕は欲張りなんだ。雫のすべてが欲しいから」
久遠はそっと握りしめた指を震わせた。借りがあるとはいえ、久遠を裏切る真似はできても、雫のことは、裏切れない。
「数ヶ月後には、ご結婚されますが」
「うん。でも、僕は独占欲が強い。だから、きみのことも邪魔だと思うことがある。ごめんよ、七月」
「いえ……自然な感情だと、理解できます」
「そうかな……?」
哀しそうに笑んでみせた久遠に、同情しなくもない。だが、七月の予測を上回り、久遠は強い口調で続ける。
「誰が何をしようと、誰にどう扱われようと、僕の雫を好きな気持ちは変わらない。でも、だからといって、すべてを許容できるわけじゃない。僕の感情の発露や、行為の如何にかかわらず、僕が雫を愛していないという結論には、絶対にならない。これは、覚えておいてくれ」
久遠は沈黙を選んだ七月の前で、長い脚を組み替えた。
「可能性の話だが……きみが雫と揉めた原因が、看過できない接触のせいだとしたら? 僕は許すことができるだろうか? きみと雫の仲が一時的に拗れたことは、把握している。雫は詳細を一切、漏らさないが、あらゆる展開を考えすぎて……頭がおかしくなりそうだ」
七月が眉を寄せると、久遠は苦しげに喘いだ。
「あの子の傍にいたいのに、雫を尊重できなくなるのが怖い。身勝手なアルファには、なりたくないのに……」
雫には黙っていたが、微細なオメガの匂いの変化は、七月を含むアルファを、多少、自意識過剰にさせるに十分だった。その変化がはじまったのは、七月が狂うよりずっと前のことだ。初めて雫に触れた時の感動を、まだ七月は覚えている。
「雫と生きられる代わりに、諦めて切り捨てるものを増やしてもいいと、覚悟してきたつもりだ。僕ほど雫を想っている人を、きみ以外に見たことがない。……きみの名誉を踏みにじる発言をしているのに、被害妄想だと思い込みたいのに、そうじゃないと考える自分が否定できない。こんなの、最低だ……。でも、もし、きみが、僕に付いてくれるのなら……」
震えながら言葉を吐き出す久遠は、美しかった。これほど弱みを率直に晒す久遠は、初めて見る。ある種の畏敬すら七月は覚えた。一方で、七月の反応からどの程度の事実が出てくるかを、事前に確認しようとしている可能性も、否定できない。
「僕を否定してくれないか、七月。たった一言でいい。違う、と」
そう吐き出した久遠が、のたうち回る光景を見るのは、まだ今じゃない。
「これは悪い夢だと、言ってくれ。でないと、心が砕けそうだ……。雫が変わったのは、オメガとして成熟しつつあるからだ。いい兆候だ。そうだろ?」
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