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第19話 駆け引き(3/3)

 もうすぐ、久遠は雫と七月の手酷い裏切りに直面する。その時、何をどう受け止め、どんな反応をするか、予測するのは極めて難しい。考え得る限りの、最悪な事態を回避できるなら、どんな嘘でもつくだろう。だが、雫との約束だけは破れない。  同情に値する声音で、久遠は言い募る。 「きみらの間で起きたトラブルは、兄弟喧嘩みたいなものだ。些細な行き違いと、意地の張り合いだった。ただそれだけだ。だろ?」 「久遠さま……」  雫を尊重すると決めた以上、当事者であり、加害者でもある七月が、何かを言えるはずがなかった。西園寺家から内々に、雫が嫁ぐ際、七月の同道は不要との通達があったのはだいぶ前のことだ。その報せに久遠がまったく関わっていない確証はない。久遠という将来の伴侶を得た雫の傍には、望むと望まざるとにかかわらず、七月の居場所は存在しない。二年前におこなわれた婚約式に七月が出席を許されたのは、半分だが雫との間に血の繋がりがあったからだ。そもそもアルファがオメガの世話をすること自体が、異例であり、特例なのだ。  七月が音瀬家からの独立を模索し、泰衡の支配から逃れるべく、不正の証拠集めに血道を上げたのは、雫の受け皿になるために、必要不可欠だったからだ。雫の受容により、七月の心は一時的にではあるが、救われた。雫の心の片隅に些細な居場所をもらった以上、雫を恒久的に守ることこそが、今の七月の使命であり、それが七月を生かすことにもなる。子孫を残せず、番いもつくれない七月の内側にある空洞が、不完全な雫を必要としていた時期も、確かにあった。だが、今は素直に、雫の人生を価値あるものにしたい、と七月は願う。  そのためにどんな犠牲を払おうと、肚を括った以上、もう揺らがない。  沈黙を守り続ける七月へ、久遠は決然と提案した。 「きみと、取り引きできないか? 七月」 「取り引き、ですか……?」  応えてしまって、しまった、と七月は後悔した。 (……悪手だ)  久遠は基本的に鷹揚で陽気な気質の持ち主だが、無意味なことをする性格ではない。これまで、七月は雫の影となり、極力、波風を立てないよう慎重に振る舞ってきたが、西園寺グループ現総裁の恒彦を向こうに回し、雫との婚姻を推し進める久遠の手腕は確かなものだ。腹に何を呑んでいたとしても、驚かない。 「僕は、雫が欲しい」  週末ごとに西園寺家へゆく雫に同行し、扉ひとつ隔てられたコネクティングルームで、いつ雫が発情するとも限らないまま見守るのは、心理的負荷の高い仕事だった。 「もし僕が、きみに与えうるすべてを与える用意があるとしたら、雫をくれないか?」  久遠の苦しみを、理解できなくない。だから、上ずる声音を調整できないまま、七月は尋ねた。 「どういう、ことでしょうか」 「条件さ」  苦悶を浮かべたまま、久遠はほどいた指を七月に向けて、折ってみせた。 「スタートアップの運転資金、音瀬家からの自由と独立、西園寺家で雫に仕える権利、望むなら、アルファとしての確固たる地位も」  哀願めいた声で、久遠は並べ立てる。そしてふと、言葉を切った久遠が視線をやった先を追うと、やがて芝生で彩られた丘の稜線に、雫の朽葉色の頭部がひょこんと現れた。まっすぐこちらへ向かってくるが、この距離なら、まだ何を話していても盗み聞きされる心配はない。 「伴侶として、人生をともにする運命の番いとして、雫の唯一無二になりたい。たとえば、きみが抱き得る感情のすべて……婚姻後、きみらの間に何かが起きたとしても、見ぬ振りをすることも、不問に伏す覚悟も、しよう。きみだって、僕と同じアルファだ。わかるだろ?」  この苦しみが。痛みが。 「きみらは血で結ばれた家族だ。けど、僕は違う」  だから、欲しいのだ、とのた打つように告げる。久遠の一存があれば、おそらく並べられた条件を全部クリアできる。西園寺グループ時期総裁候補の立場には、それだけの力がある。 「七月。もしイエスなら、僕を呼び捨てにしてくれてかまわない。だから」  その申し出に、七月は猛烈に不機嫌になった。同じアルファと括られるが、雫との婚前診断で、オール「F」が出た意味が、久遠と七月では違う。七月は『はりぼてのまがいもの』だが、久遠には別の相手を探す余地が残される。 「私の主人は、雫さま、おひとりです。……久遠さま」  自分でも驚くほどその声は硬かった。 「っ……そうか、そうだな……」  久遠は悔しげに吐き出すと、それ以上の会話はなかった。  やがてサクサクと芝生を踏みしだく音とともに、雫が戻ってくる。日陰になっている西洋風東屋に足を踏み入れた雫へ、久遠も長い脚を解いて立ち上がった。七月も倣い、雫がよろけても縋れる位置へ、さりげなく身体を寄せる。 「待たせてごめん。買ってきたよ、久遠」 「ありがとう。使って悪かったね、雫」 「ううん。好感度、上がった?」 「爆上がりだよ」  もし、久遠の絶望が憎悪に変わるなら、その時にこそ、七月の存在意義が生まれる。 「これ、七月の分。ピスタチオ」 「ありがとうございます、雫さま」  七月は、手渡されたアイスを持ち、雫の斜向かいのベンチに腰を下ろした。雫に好みを把握されていることが、くすぐったく、温かいものが胸に満ちる。久遠の言うとおり、確かに、この関係性は、血のみにより結ばれたものではない。 「みっつ、買ったら、久遠のはダブルにしてくれたんだ。バニラと抹茶」 「おいしそうだ。食べようか」  先ほどまでの弱気を微塵も見せない久遠を横目に、雫と一瞬、目が合う。緊張と決意の同居した表情の雫を力付けるように、七月は小さく頷いた。  裏切りを告白する前の、最後の食事がはじまろうとしていた。

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