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第24話 約束の理由(1/4)

「……着替えと、お湯をお持ちいたしましょう」  落ちてしまった雫を見下ろす久遠に背を向け、ベッドを下りた七月のシャツの袖を、久遠の指先が柔く掴んだ。 「……てくれ」 「久遠さま……?」 「ここに、いてくれ……七月。お湯と着替えなら、僕がやるから……」  振り返った七月の視界に、耳朶を染め、苦しげにため息をつく久遠がいた。 「今、ふたりきりになってしまったら、止まれない……。初夜の約束は、守りたいんだ」  誇り高い自重を見せる久遠に、七月は、ふと皮肉を投げたくなってしまう。 「私が止まらなくなるとは、考えないのですか?」  にじり寄るような声になってしまい、放った言葉を後悔した。互いに余裕がないのが丸わかりで、情けない。だが、久遠は特に取り繕う様子も見せず、七月を身代わりに引き寄せると、ベッドから下り、ふらつく身体を肘掛け椅子の背に頼り、支えた。久遠も七月も、うっすら額に汗を帯びていた。 「抑制剤を強くしたんだろ? 信用するさ。僕も……そうしないとならないだろうな」  俯いた久遠は「雫を頼むよ」と呟くと、七月が反応する前に背を向け、部屋を後にした。雫の婚約者を顎で使うわけにはいかないと考えたが、残された七月もまた、重いため息をつく。 (もっと、世慣れた方だとばかり思っていたが……)  あれほど差し迫った表情の久遠は、見たことがない。七月とて、内面は同じだった。抑制剤を強くしたとはいえ、夜毎、雫に触れていた肌の名残りが、まだ手の中にある。衝動が理性を食い破らないのは、互いに、もうひとりのアルファの存在があるからだ。 「あなたのお相手は……尊敬に値する方のようですよ」  相手をねじ伏せようと、行動できなかったわけではない。だが、危うい均衡を、崩そうとはしなかった。雫が望まないからだ。 「久遠さまを、手伝ってきてもよろしいですか? 雫さま……雫さま?」  静寂に包まれたベッドの上で、消耗しきった雫を起こすのは忍びなかったが、赤子のような涼やかな匂いをさせる雫に屈み込むと、七月は囁いた。何度か名前を呼ぶと、雫は「ん……」と呻き、覚醒しかけるものの、再び深く潜ってゆく。  雫を挟んで三人でいる時、雫に触れる久遠を幾度、引き剥がしたい衝動に駆られたか知れない。おそらく久遠も七月に対し、同じ感覚を持ったはずだ。 「七月は少し外します。雫さまは、お眠りいただいていて、かまいません」  聞こえるわけもない言葉を律儀にかけると、七月は雫の身体を上掛けで包み、久遠に倣い部屋を出た。  螺旋階段を下り、一階のリビングダイニングとひと続きになっている、アイランド型のキッチンに久遠を見つけた。七月は、わざと雑に気配をさせたまま歩み寄る。できるなら、少し独りにしてやった方がいいだろうが、若芽のような久遠に、庇護欲に似た感情をかき立てられるのが不思議だった。 「お手伝いいたします、久遠さま」  久遠はシャツとスラックスから、楽なスウェット姿に着替え、おっかなびっくりIHヒーターに薬缶を乗せたところだった。 「ああ……ありがとう。僕ひとりじゃ、どこに何があるのか、よくわからなくて。……雫は?」 「疲れたご様子で、お眠りに」 「そっか。少し、はしゃぎ過ぎてしまったかな……」  ばつの悪い顔を隠しもせず、久遠は、あちこち跳ねる髪を、手持ち無沙汰になるなり、引っ張り、かき回した。滅多に見せることのない、強いストレスに晒された時に久遠が行う代償行為だった。 「酷い顔だろ?」  人生の長い時間をともに歩みながら、やがて雫の伴侶になるはずの久遠の内面に、一切、触れようとしてこなかった自分の態度を、七月は省みた。最初は雫を託す価値があるか見極めようと、かなり挑発的な言動もしたが、それが、可能性を秘めたアルファの存在を浮き彫りにするとは、皮肉なことだった。 「それで、僕は合格した?」  ストレートに久遠が問う言葉に七月は驚いた。内心の動揺を隠すために、沈黙し、薬缶に視線を移す。IHにしては型が古く、沸騰まではまだ時間がかかりそうだ。七月の意図を早々に見抜き、対応した久遠に、どう答えたものか迷っていると、久遠は肩を竦め、苦笑した。 「いや、答えなくていい。きみの……思いやりだと思うことにするから」  七月が顔を上げると、久遠は少し傷ついた表情をしていた。七歳も年下の、雫の幼馴染に対する態度ではなかったと、その時、七月は初めて自覚する。 「失礼ながら、なぜあなたのお相手が雫さまでなければならないのか、ずっと疑問に思っておりました」  オメガに触れた時だけに得られる独特の高揚感は、アルファを獣に変化させる唯一のものだ。久遠は初めて直面した事態にもかかわらず、雫を完全にオメガとして扱おうとも、奪おうともしなかった。支配と服従に根ざした七月の拙い愛情とは、違う何かを持っている。だからこそ、無視できない。七月の意図を汲んだ上で、進んで踊ってみせた久遠の内面を、いつしか知りたくなっていた。

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