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第24話 約束の理由(2/4)
「あの子と最初に喋った日のことを、今もありありと思い出すよ」
率直な七月の問いに、久遠は懐かしむように話しはじめた。
「馴れ初めは……雫が級友を突き飛ばして騒ぎになった、翌日のことだ。誰もあの子を怖がって、遠巻きにするけれど、口を利こうともしない。だから、仲裁を買って出るつもりで、僕が声をかけたんだ」
「幼稚舎に入学して、まだ間もない頃のことですね」
「うん」
七月の声に、久遠は目を眇め、頷いた。
その日を、七月も強く覚えていた。前日に、雫は級友のひとりを、言い合いの末に突き飛ばし、軽い怪我を負わせていた。報告を受け、呼び出されてきた泰衡へ、学校側は、雫にのみ問題があるという態度で厳重注意をおこなった。
「最初は、なんて乱暴な子なんだろう。ご両親が不在だから、しっかり教育されていないのだろうか? と、思ったんだ。でも、すぐに違うことがわかった」
あとになり判明したが、突き飛ばされた生徒側にも問題があったらしい。雫の両親を悪しざまに罵り、一方的に責め立てるクラスメイトに、六歳に満たない雫が頭にきたのも無理からぬことだった。しかし、泰衡に血の通った弁明など通じるわけもなく、帰りの車内で烈火の如く叱られた雫は、その夜、大雨の中、夕食の時間に食堂に現れず、自室からも姿を消した。七月を筆頭とした使用人たちが深夜まで邸宅内を探し回る騒ぎになり、明け方近く、屋根裏部屋の隅でうずくまっているのを七月が見つけ、ことなきを得たが、謝りながら泣きじゃくる雫の頬の涙の熱さを、七月に、ありありと思い出させる事件だった。
『騒ぎを起こしてしまって、すまない』
翌日、久遠に水を向けられた雫は、まず、率直に謝罪したのだそうだ。
「それから、乱暴を働いた子に、雫は謝りにいったんだ。誰も連れずにひとりでね。小さな体で、あんなに潔く頭を下げる子を、僕はそれまで見たことがなかった。自分の非をを認めた上で、両親を悪く言った子に対して、抗議もしたんだ。凄かったよ。僕らは皆、その態度を目にしただけで、すっかりファンになってしまった」
『死んでしまった人は、どんなに貶められても、名誉を挽回する機会がない。おれは昨日、両親の名誉のために、きみに手を上げてしまった。おれは音瀬の子だから、家と両親の不名誉を糾す義務があると考えた。間違ったやり方できみを傷つけてしまったことは、謝罪する。でも、これからもおれの大切な人たちを辱める発言をするのなら、それが誰でも、いつでも相手になるつもりだ』
その日を境に、雫は、生徒らの間で一目置かれる存在になった。まだ第二種性別が未分化だったせいもあるだろうが、七月の腕の中で泣きながら、小さな身体を震わせ、得られることのない両親からの愛情の代わりに、泰衡の信頼を勝ち取ろうともがく雫は、その欠落ゆえに、美しかった。
『七月……っ、おれは、どうすればいい……? どう挽回すれば……っ』
鼓膜の奥に、声変り前の震える鈴のような雫の声を聴きながら、七月が歪んだ愛情を飼い慣らしている間、久遠は大人びた雫の態度に、心を奪われていたのだ。
「一人前の大人より、ずっと立派だったよ。一晩でこうも人が変わるものなのか、それとも、本来、彼が持つ資質が目覚めたのかはわからないけれど……当時、父との確執に悩んでいた僕は、自分がどれだけ小さなものを引きずっているか、身に染みて思い知らされた。雫が、僕の目を開かせてくれたんだ。それから、ずっと、僕は雫が好きになるばかりだ」
友だちができたかもしれない、と控え目に、だが興奮を露わに、雫が七月に打ち明けてきたのは、それから数ヶ月が経過した初夏のことだった。遊戯を結んだ相手が西園寺家の嫡男である久遠本人だとわかり、泰衡が喜色を示したのは、その夜、七月とともに、雫が報告を上げた時だったが、それからしばらく続いた泰衡の態度の豹変に、失望した横顔を晒す雫を、七月は不憫に思いつつ、肚の中で嗤っていた。
「世の中を斜に見て、やさぐれて反抗を続けることだってできただろうに、雫はそうは、しなかった。たった一夜で腹を括ったんだ。もしかすると、陰には、きみや、周囲の助言があったのかもしれない。でも、決めたのは雫だ。だから、僕は彼を好きになった」
(風が、吹いているようだ……)
眩しげに語る久遠を、七月は胸のすく気分で眺めた。過去がねばつく泥のようでも、いつか報われる日がくると信じ、すべてを捧げる気持ちで、雫をつくりあげてきた。進むべき道の先に、雫への所有欲という歪んだ情しかないと信じてきたが、久遠は七月に別の角度から、陽を当てようとしている。
「閨房術のことを黙っていて、申し訳ありませんでした……久遠さま」
不意に零した言葉に、七月自身が驚く。顔を上げると、困ったように笑う久遠と目が合った。
「気にしないで。僕がきみの立場でも、きっとそうしただろうから――と、言いたいところだけれど……」
この眩しい若者と、直接、まっすぐ言葉を交わす勇気を持てないでいた。もしも、久遠が、雫をオメガを見る目つきだけで見るだけのアルファだったなら、雫の内面に不信感を刷り込む手段を取ることもできる。だが、気づけば、胸の奥で鼓動が震え、両脚を踏ん張りきれず、このアルファに傅こうとする衝動に、七月は抵抗する術を放棄したくなっていた。
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