70 / 118
第24話 約束の理由(3/4)
薬缶が細く跳ねるような音を立てはじめ、コンロの火を消した久遠が、今度は水を足しながら、温度の調節を試みる。その間、七月は雫用の着替えを用意しながら、ふと心に巣食っているはずの闇の一部が、晴れつつあるのを自覚した。
「……きみは、雫を愛しているね?」
真正面から射てくる久遠の澄んだ眼差しが、七月の脳裏に突き刺さる。
「異父弟ですから……」
「そうじゃなくてさ。そんな誤魔化しは、僕らの間にはもう不要だと思うんだが」
沈黙した七月に、久遠は斬り込んだ。
「顔を見ればわかることもある。ベッドの上で僕に噛みつきそうな顔をしていたよ。僕も同じ気持ちだったから、何となく理解できる」
久遠は、努めて礼儀正しく秘匿しようとする七月から視線を外すと、薬缶に触れて、熱さを確かめた。人肌より少し高い温度にすると、七月に預けようと薬缶を差し出す。
「雫を、きみには絶対に渡したくないと思っていたけれど……少し考えが変わったよ。アルファなんて、一皮剥けば、皆同じ、本能に逆らえない愚かな奴ばかりだと思っていたけれど、きみは少し違うね」
久遠は薬缶を握る七月の左腕の、手首に近いところを握り、呟いた。
「っ……」
「医者にも行っていないんだろ? 雫との間に起きかけたことを、隠す為に」
「久遠さま……」
「雫を心から愛する者が、いてくれてよかった」
七月の身喰いの傷跡を確認するように撫でると、久遠はすぐに手を離した。七月が、医者にも誰にも、雫の身の上に起きかけたことを完全に秘匿するために、ちゃんとした手当てを受けていないことを見抜いた久遠は、それまで向けていたものとは一線を画すような、穏やかで暖かな目をしていた。
「私は……」
久遠に呑まれそうになり、七月は踏みとどまったが、自分の気持ちを全く話さないのは、不誠実だと考え、口を開く。
「私の最優先事項は、雫さまです」
「うん。それでいい。僕は……父の意志に従い、番いを持たないアルファすべてを、ひとつの例外もなく、雫から引き離すべきだと考えていた。でも、今夜からは、少し違う意見を持つだろう。僕は、雫のように簡単にはいかなくて、アルファらしくあろうとしても、一皮剥けばぐちゃぐちゃさ。こんな僕を好いてくれる雫の傍に、きみがいてくれることは、きっと祝福に近い意味を持つだろう。きみが、命を……すべてを賭けてくれたからだ」
「私のそれは……代償行為に過ぎないかもしれませんが」
「心にもないことを言うね」
久遠は相好を崩すと、ユニットバスから洗面器を持って戻ってきた。「いこうか」と七月に声をかけ、雫の着替えと薬缶を持った七月に背を向け、螺旋階段を上る。
「知ってのとおり、アルファは本来、群れるのを嫌う習性がある。群れた時点で頂点を取りたがる性質も。でも、きみは失礼ながら……「普通のアルファではない」。僕はね、七月。この問題を解決する突破口が、そこにあるんじゃないかと考えている」
「問題……ですか?」
穏やかな声で倫理観の際どい話を詰めてくる久遠が、何を考えているのか、七月は煙に巻かれる気がした。が、不思議と不快感がないのは、どういった心境変化だろうか、と少し不安になる。
「きみがいたから、雫はまっとうに生きてこられた。だから、いつか言わなければならないと思っていた。長い間、ありがとう、七月。僕の雫をこんな素敵な人間にしてくれて、きみの献身に、敬意を表すよ」
普段なら「僕の雫」などという所有欲を丸出しにした言葉に引っかかるところだが、抵抗感がない。
「きみの唯一無二の弟が、僕はとても好きだ。ここまで雫を育んでくれたことに、心から感謝する」
「久遠さま。私は……」
花嫁の異父兄の顔をすればいいのか、それとも忠実な番犬の顔をすればいいのか。それとも異父弟であるはずのオメガに過ぎた愛情を抱く、不遜なアルファの顔をすべきなのだろうか。七月の逡巡を見た久遠は、何でもない話のように続ける。
「僕は雫が大切に思うものを守る。きみと同じで、リスクが伴おうと、優先順位は、はっきりしている。雫の未来。僕の未来だ。そしてその未来には、雫が大事に思っている人も入る」
視界が開け、風がかすかに七月の頬を祝福するように撫でる。だが、七月は久遠への返答を、あえて避けた。今宵は少量だが、酒が入っている。その上、雫のフェロモンの影響を受けて、興奮状態にあると言えなくもない。常とは違う状況下で物事の舵を切るのは良くない。愚かだと笑われようと、誠実であればこそ、拘泥すべきだった。
ともだちにシェアしよう!

