72 / 118

第25話 寿ぎ(1/2)

「遅い」  食堂で不機嫌なまま紅茶を飲んでいる泰衡に、少し寝過ごしてしまった雫は、小さく詫びて、着席した。 「弛んでいるぞ。今日が大事な日であることを忘れたのか? お前の振る舞い如何で音瀬家の未来が決まるのだ。くれぐれも間違うな」 「はい、大叔父さま」  いつもより早い朝食だった。今日以降は、泰衡と食卓を囲むのも、西園寺家と音瀬家が揃う特別な場に限られるだろう。そもそも泰衡にとっては家名の存続と隆盛こそが重要で、雫はその為の利用価値のあるモノだとみなされている。考えると胸が疼くが、それでも、今朝、泰衡がわざわざ食事の時間を合わせてくれたことに、雫は感謝した。  久遠に閨房術の件を打ち明けて以来、七月が、久遠と雫の関係を上手く誤魔化してくれているおかげで、泰衡は、たまに七月に報告を求めることはあっても、雫と直接、会う機会を設けようとしなかった。  その間、久遠と七月に挟まれ、週末がくるたびに淫靡な行為に耽り、雫は少しずつオメガの身体が変わりゆくのに適応しようともがいたが、まだ発情には至っていない。 「わたしは先に出る。お前も、くれぐれも粗相のないようにしなさい、雫」  雫がジャム入りの紅茶に口を付けるのを見た泰衡は、ナプキンで口を拭うと、さっと席を立った。まるでオメガと一緒の食卓は穢れるとでも言うような態度だった。 「あの、大叔父さま……っ」 「何だ?」  背を向けた泰衡を呼び止めた雫は、食事の途中で席を立った。 「今まで……長い間、育てていただきありがとうございました。お世話になりました」  刺々しい泰衡の態度に抗うように、雫は頭を下げた。様々な問題が今もなお、泰衡との間には横たわったままだが、両親を早くに亡くした雫に何不自由ない金銭的援助を施したのは、ほかでもない泰衡だ。西園寺家へ嫁ぐ今日まで途絶えなかったその支援は、決して小さなものではない。 「……遅刻はするなよ」 「はい……っ」  泰衡は振り返らず、食堂をあとにした。雫の傍に控える七月が一礼すると、一瞬だけそちらへ視線を向けたが、無言のままだった。  雫は途中だった食事を急いで済ませると、七月とともに送迎のリムジンに乗り込んだ。  今日はハレの日だ。  雫と七月を乗せた車は、東京湾岸の西園寺グループが所有する結婚式場へ向かう途上にあった。今日は、西園寺家と音瀬家に所縁のある者らが列席しての結婚式と、披露宴が予定されている。ベイエリアにある式場は湾を臨むホテルを擁し、昼を跨いでおこなわれる宴の席で、西園寺側の関係者らに、泰衡をはじめとする音瀬側の経営陣の顔をあらためて繋ぐのが、雫の役目のひとつだった。すべてが滞りなく済んだら、ホテルのインペリアル・スイートで、久遠と初夜を迎える手はずになっている。  週末ごとに甘い感覚を植えつけられてきた雫だが、久遠を交え、愛を囁かれても、ついに発情までは至らなかった。式の一週間前に交わりは終わり、ここ数日は身体の芯に燻る熱を持て余しぎみだ。あと一歩のところで踏みとどまっている感覚が、今の雫にはある。久遠とちゃんとできるのか、不安がないといえば嘘になるが、できるだけの準備はすべてした。それに、どうしても駄目だった場合に備え、発情促進剤も用意されていると聞く。七月とも今日限り、しばらくは離れ離れになるが、きっと大丈夫だと雫は信じようとした。 「緊張していらっしゃいますか? 雫さま」 「ん……でも、平……いや、大丈夫」  高架橋の上を、緩くカーブを描きながら走行するリムジンの車窓から外を眺めていた雫は、上の空になっていた自分を内心で諌めた。サイドウィンドウを狭く切り、外の空気を入れる。緊張を悟られないよう力を抜こうとしたが、七月にはわかってしまうものだな、と諦観とともに苦笑するしかなかった。 「私の腕が足りず、発情経験のないまま嫁がれることに、不安を感じていらっしゃるでしょうが……」 「違うんだ」  慌てて訂正し、雫は七月を仰いだ。その時になり初めて、七月もまた不安を抱えているのだと気づく。 「おれは、たぶん何とかなると思う。久遠もいるし。でも、初めてのことだから、やっぱり何というか……」  湘南の西園寺家の別邸で、三人で初めて真似事をして以来、久遠は七月の前で、雫を求めることに躊躇しなくなった。時には七月に背後から両脚を開かされ、雫は興奮した状態を晒し、久遠に揶揄されたりもした。繋がらないこと以外、試していないことは思い浮かばない。縋る背中の広さも、力強い四肢も、着衣越しにではあるが記憶している。本番と一線を画している、というのは建前と言ってもいいほど、たくさんのことを試した。

ともだちにシェアしよう!