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第25話 寿ぎ(2/2)

 雫が気にしているのは、西園寺側や久遠本人が、音瀬家側に対し、七月を不要だと通達したその意志を、覆さなかったことだ。ひとりの判断に任せられることではないと承知してはいたが、久遠が動かなかった理由を、雫は聞けずにいた。どちらにせよ、今日以降、しばらくは七月と顔を合わせなくなる。それは即ち、雫に巣立ちの時がきたことを意味していた。 「きみに……とても世話になったと思って。色々あったようで、二十年なんてあっという間だった。きみのような大人になることが目標だった。久遠というパートナーができて、ここまでちゃんとやってこられたのは、きみのおかげだ、七月。ありがとう。正直……別れるのが寂しい」 「雫さま……」  誰にも邪魔されずに本音を伝えられる、最後の機会になるだろう。七月に恩返しをするなどと息巻いていた時期もあったが、与えられるばかりで、とうとう何も返せなかった。今だって、久遠を通して雫がちゃんとねだれば、もしかすると七月を連れてゆくことができるかもしれない。でも、七月の人生に枷を付け、縛り続けることは本意ではないし、久遠にこれ以上、負担を強いることも、雫にはできなかった。 「きみの幸せを、ずっと願っている。事業が成功して、たくさん有名になって、斎賀准教授と七月の名前が世界に知れ渡るのを、おれは待っているよ。どこにいても、きみが生きて、立派にやってくれていることがわかるだけで、支えられた日々を思い出すだろうから……。だから、どうか元気で。これからの人生を存分に楽しんでくれ。それと……我が儘が許されるなら、時々は、おれと久遠にも、会いにきてほしい」  久遠が動かなかったのが、久遠の意志なのだと雫は受け入れる。七月との間のことに、答えを出す刻限が迫っていた。たとえ七月に未練を持っていたとしても、雫は蒼穹へひとり、踏み出すしかない。久遠のもとへ思い切り手を伸ばし、その手をちゃんと掴むのは、雫にしかできないことだ。 「……もとより、そのつもりでありますが、あらためて、承ります。久遠さまは立派な方です。私が見込んだ以上の。雫さまと、きっと幸せになられると信じています」 「うん……」  もう二度と、七月の手のひらの熱を知る夜はこない。郷愁が生まれても、文句ひとつ言わずに雫を導いてくれた七月の手を離し、自由な空に放つことこそが、恩返しになるはずだ。 「雫さま。一度だけ、久遠さまとの約束を破ります」  不意に七月が、雫の左手首を取ると、その上に恭しくくちづけた。 「ん……っ」  たった一瞬の接触だというのに、七月の想いが込められていて、雫は急速に昂ぶってしまう自分を律した。 (今は、その時じゃない……。まだ、だ……)  身体は解放を求めている。久遠と抱き合う時が、刻一刻、近づくのを心臓の鼓動とともに自覚する。 「たったひとりの家族として、あなたに揺るぎない祝福を」  囁いた七月に、雫は大きく頷いた。 「うん……七月」  初夜にどうしようもなくなったとしても、久遠がいてくれる。アルファ用とオメガ用の発情促進剤も、用意されていると聞き及んでいる。七月の不在を思うと、片翼をもがれる気がするが、ひとりではないと言い聞かせ、雫は奥歯を食いしばる。  七月はそれを見抜いたのかもしれない。雫の手首を引き寄せ、手に手を重ねた。 「行き詰まった時は、私が……私という家族がいることを思い出してください。もしも久遠さまが、雫さまの意に沿わないおこないをした時は、いつでもご相談ください。七月が駆けつけますから」 「ありがとう。おれ、頑張るよ」  言葉尻こそ戯けて、冗談に紛れさせていた七月だが、その声は普段の落ち着きを備え、真摯に雫の鼓膜に届いた。 「あなたが巣立ったとしても、私の最優先事項であることに、変わりはありません」  心も、身体も、尊厳も、魂も、すべてを七月に与えられ、支えられて生きてきた。巣立ち前の雛の戸惑いや逡巡を、七月はそっと拭うように笑う。 「ご結婚、おめでとうございます。雫さま」  誇らしげな七月の表情に、雫は泣き笑いのような顔で、ただ「ありがとう」と答えることでしか、気持ちを表現できなかった。

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