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第26話 影として(2/2)
「その意向を翻させるのが、お前の仕事だっ、七月!」
「……っ、申し訳ありません」
泰衡の癇癪に、七月はしおらしく頭を下げる。久遠が雫とした約束は、果たされるべきだった。この身を削ることで守れるものがあるのなら、頭などいくらでも垂れてやる、との決意に、泰衡は嫌悪感と苛立ちを露わにした。
「心の底から申し訳ないと思うのなら、わたしの為に働け。いいか? 雫にインペリアル・スイートへいくよう指示を出した。お前はこの食事を雫に与えたあとで、訪ねてくる西園寺家の御曹司を同じ部屋に通せ。あやつらが同じ空間に入ったら、外から鍵をかけ、お前が扉の前で見張るのだ。何が起きようと、決して中を覗かず、何も言わず、聞かず、ことが終わり静かになるまでな」
「それは……」
七月のつくったサンドウィッチの乗ったトレーに、ココアの香りのするマグカップが泰衡により添えられる。マグからは甘い湯気が立ちのぼり、雫の好物に擬態した液体が存在感を発揮していた。
大人になった今はもう、ベルトで打たれることはない。理性ではわかっていても、過去の記憶を拭い去るのは難しかった。それも計算の内だと言いたげに、泰衡は鼠を狩る猫のように嗤った。
「お前がこそこそとわたしに隠れ、何かを企てていることに気づかないとでも思ったか? あれを無傷のまま西園寺側に渡すなど、愚の骨頂。あの御曹司に土を付けておけばこそ、音瀬家のオメガが優位に立てるというものだ。いいか。アルファはこうして人を使うのだ。あの姑息な西園寺家の嫡子には、念押しの連絡を入れておいた。お前がわたしの手足となり、やり遂げろ。お前の事業に金を出すのが誰か、忘れたとは言わせんぞ」
「旦那さま……」
強張った七月の声から抵抗の気配を読み取った泰衡は、猫撫で声で問う。
「時に七月。あれは……今朝、朝食を残さずに、すべて食べただろうな?」
急に話題を振られた七月は、いつもの癖で、記憶を手繰り寄せ、食堂での様子を泰衡に描いてみせようとした。
「今朝は……スクランブルエッグ、サラダ、蜂蜜を塗ったトースト、それに紅茶を……」
そこで七月は違和感に黙り込んだ。紅茶はストレートティーではなかった。記憶が確かなら、ジャム入りのロシアンティーが用意されていたはずだ。泰衡が朝食に何かを盛ったのだとしたら、今頃、雫は体調を崩している可能性もある。だからインペリアル・スイートに誘導したのだろうか。
(だとすれば……)
七月の表情が変わるのを確認すると、泰衡はトレーの上にカード型の鍵を託し、囁いた。
「これが、インペリアル・スイートの鍵だ。お前がやり遂げるのを、楽しみにしているぞ、七月」
鼓膜にその声が届いた刹那、七月は膝から崩れそうな恐怖を味わった。
「ことが上手く運び、すべてが終われば、お前は自由だ。……さあ、ゆけ」
泰衡の声に揺らいだ七月は、震えながら、鍵の乗ったトレーを受け取る。
まだ、先ほど触れた、雫の細くたおやかな手首の感触が残っている手でトレーを支え、泰衡に背を押され、送り出される。
七月は酷く青ざめ、操られてでもいるように、ふらりと機械的に一歩を踏み出した。
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