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第27話 一代限りのアルファ(1/1)
泰衡の命令に従い、渡り廊下の先にあるインペリアル・スイートへ向かいながら、七月は絶望していた。
思えば、二十年前、父が超えたバルコニーの柵を凝視し呆然としていた七月の頬を打ち、正気付かせたのが泰衡だった。
『何を惚けているっ! 音瀬の血を引く者に、感傷など不要だ……!』
突然の衝撃に、七月は最初、殴られたことさえ認識できなかった。泰衡は当時、確かまだ五十代だったが、痩せぎすの身体を三つ揃えで巧みに隠し、隙のない厳しい声で七月に問うた。
『志寿の子だな? お前が「涼風七月」で間違いないか?』
自分を睥睨する泰衡に、髪に白いものが幾筋か混じる灰色の鬼を、幼い七月は連想した。
『お前の親は死んだ。わたしの元へくるか、孤児院へゆくか、十五分やる。ここで決めろ』
七歳に満たない子どもに利く口ではなかったが、七月は鬼に威圧され、断れなかった自分の決断を、しばしば思い出し、悔いることもあった。その後、音瀬家に入ることが正式に決まると、涼風姓を名乗ることと引き換えに相続に関するすべてを放棄し、亡き母の志寿が命と引き換えに産んだばかりの幼子の世話を、同じように雇われ乳母として音瀬家に入ったばかりの女性と交代でおこない、数々の規則と規律を覚え、勉学に励んだ。
一切の事情も汲まれず、容赦のない怒涛の日々がはじまったのは、七月が七歳の誕生日を迎える、わずか三日前のことだ。初夏の風が頬をさらってゆく季節に生まれた志寿の子は「雫」と名付けられ、やがて音瀬家の後継者になる特別な子どもとして、少なくとも建前上は、大切に育てられた。
泰衡は、音瀬家において、子どもである七月を密告者に仕立てた。
仕事の手を抜いている者、悪事に手を染めた者、泰衡以外の誰かに忠義を誓った裏切り者を容赦なく切り捨ててゆくことで、泰衡を頂点とする、現在の強固な体制の礎を急速に整えていった過程に、七月は多感な青春時代を過ごした。
『お前はわたしの下にいれば良い』
使える犬だと思われるようになると、たまに泰衡はそう漏らした。
ベータの父を持つ七月が突然変異のアルファだとわかったのは、思春期の危機と呼ばれる第二種性別検査の前後に、泰衡が七月の遺伝子を個別検査に出した時だった。思いがけずアルファの肩書きを得た七月を、泰衡は大学へ進ませることに決め、卒業後はある程度の自由を認めるものの、音瀬家の当主が代々おこなってきた表に出せない『仕事』を割り振られることになったのは、二十歳を越える前後のことだ。中には泰衡の関わる高級サロンのオメガを性的に躾ける仕事も含まれており、実際に汚れ仕事をおこなう際には、極めて特殊なアルファである七月が抜擢された。
雫がオメガだと判明した時も、後継者ができずとも、雫が産んだ子どもがアルファなら、いずれ音瀬家の隆盛期がくると、泰衡は疑わなかった。血と家に対する異常なまでの執着と、完璧主義と潔癖な性質は、年を経るごとに、泰衡を本物の暴君に仕立てていった。その片棒を担ぐ形で生き続ける七月は、今も時々、あの鬼に逆らう夢を見る。
(いっそ、逃げ出してしまおうか……?)
雫と久遠に仇なす仕事をこなさなければならないほど、今の七月は孤独でも弱くもない。七月ひとりであれば、とうの昔に逃げていただろう。だが、共同経営者の斎賀や、従者として長年、仕えてきた雫に迷惑をかけるわけにはいかないと、縁やしがらみに足を取られる始末だ。七月ひとりが姿を消しても探す者はいないだろうが、七月と縁のある者らのその後を考えると、必然的に取れる選択肢は限られた。
渡り廊下の突き当たりに認証キーの必要なセキュリティがあり、泰衡から借りたカード型のキーを読み込ませると、メイプル材の扉は簡単に開いた。
ここより先はインペリアル・スイートだ。事前に記憶した間取りのとおりなら、長い内廊下をまっすぐいった突き当たりがバスルーム、その手前がトイレ、その手前に主寝室があり、一番手前の扉を開けると、ウエルカムボードの置かれたリビングダイニングがあるはずだった。他にも、寝室と備え付けのバスルームが幾つかあり、どの部屋からも、湾に面する夜景が見られるつくりになっている。
七月は一番手前の扉の前に立ち止まり、小さく深呼吸をした。
二度と裏切らないと約束した雫への裏切り行為に知らぬうちに加担し、久遠にも、迷惑をかけることになる。久遠と三人でするようになった頃から、罪滅ぼしのつもりで久遠の命令に従ってきたが、他のアルファの要求に応える心地良さを知ったのは、七月にとって予想外の発見だった。
泰衡の前では決して味わえなかった充足感と、ずっとある飢餓感を認識させる久遠の言葉の匙加減が、七月には良く合った。いっそ傅いてしまいたくなる誘惑は、ベータの遺伝子に拠るものだろうか。
(ただ——それだけだったのに……)
七月は疲労を感じながら、扉を小さく叩いた。
「雫さま、七月です。失礼してもよろしいでしょうか」
ここから先、灰色の人生しか待っていないことを知りながら。
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