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第28話 突発発情(1/3)
七月が扉を開けると、ぐったりとソファに身を委ねている雫がいた。
「雫さま……っ、お加減が……?」
駆け寄る七月に、雫は顔を上げる。
「あ、七月……いや、ちょっと眠たくなってしまっただけなんだ。大丈夫」
伸びをする雫の肩にそっと触れる。久遠とともに粘土を捏ねるように、散々、愛してきた雫の身体は、シャツの上からでもわかるほど、うっすら発汗していた。
「体調は、どうですか? どこか、変わったところは?」
身体を起こした雫の斜め前に屈んだ七月は、ローテーブルの端に、鍵とサンドウィッチとココアのマグカップを乗せたトレーを置き、雫の額に手を当てた。少し熱っぽい。思い返せばリムジンの中でも様子がおかしかったかもしれない。
「ちゃんと眠ったのに、緊張で胃が引っくり返りそうで。でも、食事の時間は取れないだろうから、早めに何か食べておいた方が……七月?」
七月の気配から微かな不穏を感じ取ったのか、雫が眉を寄せた。動揺を伝えまいと身を引いた七月は、ローテーブルに仮置きしたトレーを、雫からなるべく遠ざけた位置へ移動させ、跪いた。
「雫さま」
「うん……?」
雫の体調の変化が、薬剤によるものだという可能性を、どう打ち明けるべきか。限りなく黒に近いが、誤認の可能性も、わずかだが、ある。
「いえ……その、七月もつい、浮かれてしまい、サンドウィッチにマスタードを塗りすぎてしまいました。お召し上がりになりたいものがありましたら、仰ってください。ルームサービスを頼みましょう」
泰衡から決定的な証拠を引き出す前に離れたことを、今さらながら、七月は悔いた。背中に冷や汗をかきながら、直面した事態にひとつずつ対処することに決めた七月は、フロントへの直通電話があるキャビネットへと身を翻した。
すると雫は、ローテーブルの上に置かれたトレーに視線を向けた。
「わざわざ悪いよ。でも、ありがとう。じゃ、ココアだけいただくことにする」
「駄目です……!」
反射的に引き返した七月が雫の腕を掴む前に、控え目なノック音がして、七月と雫は顔を見合わせた。
「大叔父さまかな?」
「私が対応いたします。少し、お待ちください、雫さま」
狂言なら、さぞ滑稽な役回りを演じていることだろう、と七月が苛立ちながら扉を開けると、久遠が息を弾ませ、立っていた。ツインタワーの反対側から、渡り廊下を走って駆けつけたようだ。
「おはよう、七月。雫はいる?」
「久遠さま……」
久遠は着いたばかりらしく、白地のTシャツに、紺地の光沢のあるジャケットを羽織っていた。機嫌はすこぶる良いようだったが、七月の顔色を見て、笑顔を引っ込めた。
「……何か問題が?」
七月の表情から、久遠が小声になる。
「それが……ここではちょっと。とりあえず、中へどうぞ」
久遠を招き入れた七月が振り返ると、雫がマグカップを膝の上に持っていた。慌てて歩み寄り中を覗くと、口をつけた痕跡が見える。
「飲まれたのですか……っ?」
「え? う、ん……」
七月の剣幕に驚いた雫が、あとからきた久遠へ視線を移す。式に臨むアルファとオメガは、式場で、初めて顔を合わせるのが普通だ。家同士の格式や主義によっては、初夜の前に触れ合うことを禁じる場合もあるので、久遠が訪れたことを雫は訝った。
「久遠。時間がないのに、わざわざ訪ねてきてくれたのか?」
「きみが呼んだんじゃないか。泰衡さんが血相を変えた声で連絡を寄越すから、てっきり何かトラブルがあったのかと思ったけれど……問題がなければよかった」
「大叔父さまが?」
話が噛み合わない違和感に、顔を見合わせたふたりともが七月を見る。雫の眠気がただの緊張からくるものでないことは、少し触れればわかった。一瞬、息を呑んだ七月は、肚を決めるしかなかった。
「雫さま。今朝、七月が車内でお話ししたことを、覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん……だけど、どうして……?」
何かがあることを悟った、雫の眸が揺れる。これから裏切りの話をするのだと思うと、指先が冷えて震えた。最後まで信じ続けてくれた雫と久遠を手酷く欺く罪を、生涯、背負いながら後悔し続ける人生を覚悟し、七月は口を開いた。
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