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第28話 突発発情(3/3)
雫が沈黙を破り、七月を仰いだ。
「もし、何かが起きても……七月。きみのせいには、絶対にしない」
「そんなことは……っ」
そんな話はしていない。だが、半歩踏み出した七月に対し、雫は決然とした態度で言った。
「きみをひとりには、しない。きみだけを犠牲には、しない。きみと話をした夜に、そう決めたんだ。これを覆すことは、しない」
「っ雫さま……」
雫は七月に頷いてみせると、隣りにいる久遠に向き直った。
「久遠」
「うん……?」
雫はマグに添えていた両手のうち、片方を久遠へと伸ばした。久遠が優しく受け止め、指先が交差すると、どちらからともなく握られる。
「最初は、きみがいい……久遠」
「雫……」
「おれの我が儘で悪いけれど……他の誰でもない、きみがいい。だから、約束、してくれるか……?」
愛しそうに名を呼ばれた久遠は、ローテーブルの上にマグを置いた雫の身体を抱き寄せた。
「わかった……僕が、雫の最初のひとりになる。約束する。……いいかい?」
「うん、久遠……」
潤む声を発した久遠の背中に、雫の腕が回る。この美しさが失われるなど、考えたくもない。嫉妬など、とうに踏み越えてしまった七月を前に、気持ちを確かめ合うふたりの眩しさに、胸を抉られるほどの哀しみが湧いた。
「駄目そうだったら、かまわず逃げてくれるか? 頑張れば、済むことかもしれないし……」
「拒まれたって、きみをひとりには、しないよ」
ひとしきり抱き合ったあとで、身体を離した久遠と雫は互いに視線を絡める。そのままふたりの手がローテーブルのマグを掴んだかと思うと、持ち上げたカップに、雫が口を付けた。
「雫さま……っ!」
ほとんど悲鳴に近い声で七月が迫り寄るのと、雫が中身を飲み干すのが同時だった。ココアを嚥下し、ひと息ついた雫から、空になったマグカップを預かった久遠が、無言でローテーブルの上に戻す。
「何を……っ! 何をなさるのですか……っ!」
叱責に近い声とともに、雫の肩にしがみついた七月の剣幕に、久遠も雫も動じなかった。どころか、雫は柔らかな口調で七月に向き直る。
「大叔父さまに、無茶を言われたんだろ? ごめんな、七月。おれが、ちゃんと発情できていれば、こんなことには……」
「そんな話はしていません! 早く吐き出し……っ」
だが、詰め寄る七月を見上げ、雫は想定外のことを言ってきた。
「喉が渇いたんだ。だから、きみに止められたけれど、独断でココアを飲むことにした。朝の食事に促進剤が含まれていたのなら、きみが言ったとおり、これしかないと思う」
「そんな……っ」
震える七月に向かい、雫は「大丈夫」と勇気付けるように頷いた。まるで立場が反転したようだが、雫は七月をどうにか落ち着かせると、久遠を見た。
「ごめん、久遠……、きみに……」
「迷惑だなんて馬鹿を言うなら、ぶっ飛ばすところだ。……今は眠るといい。目が覚めたら、たっぷりお仕置きしてあげるよ」
「正気なうちに言っておくけれど、何かがあって、責められるなら、責任は全部、おれが引き受ける。だから迷わないで欲しい……お願いだ」
「わかっている、雫……。きみは何も心配しなくていい。安心して、任せて」
「ん……ありがとう。七月……?」
久遠が常々言っていた、オメガが生きる可能性のひとつを潰した七月は、すすり泣くように唸った。久遠が軽々と物分かりのいい返答をするのを、混乱と憎悪のこもった目で睨む。
「しつこいようだけれど、これは、きみのせいで起きたことじゃない。おれが望んだことだから……あとを、任せて悪いけれど、少し……眠る、から……」
久遠の肩を借りて立ち上がった雫は、ふらつく足取りで七月の前を横切ると、主寝室へ向かった。七月が両脚を引きずりながら、あとをついてゆくと、雫はキングサイズのベッドに、どうにか這い上がり、横になって身体を丸めた。
「雫さま……っ、雫さま……っ」
ベッドサイドに取り付く七月に、雫はちょっと微笑みを返すと、今度こそ瞼を閉じ、眠りに落ちてゆく。うっすらと発汗した額に優しく口付けた久遠が「おやすみ」と囁いた。
「僕をちゃんと信じて、頼ってくれて嬉しい。……不謹慎かな? こんな時に。……でも」
久遠は呟くと、呆然とした七月の腕を引き、一旦、主寝室から出た。拳ひとつ分ほど細く扉を開けた状態で、部屋のすぐ外で七月と向き合った久遠は、決意の込もった視線で七月を睨んだ。
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