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第32話 ことのあとさき(1/4)
雫の鼓膜を、微かな話し声が揺らした。
囁きよりは大きいが、音量を絞っているせいか内容までは聞き取れない。が、どうやら声は久遠と七月のもののようだった。
「っ」
刹那、意識が急浮上する。
「ぅ……っ」
最初に視界に入ってきたのは、暗い天井だった。窓には遮光カーテンが雑に引かれ、ベッドの足元にある間接照明がひとつ、仄かに周囲に輪郭を与えている。起き上がろうとして崩れてしまい、全力疾走のあとのように、ろくに四肢に力が入らなかった。どれぐらい眠っていたのかも、わからない。
「そろそろ時間かな? 雫を起こしてこようか」
「はい。お願いいたします、久遠さま」
控えめなノック音とともに扉が開き、昼の光が漏れる隣室から、久遠がひょっこり顔を覗かせる。
「雫、起きた? 身体、大丈夫? ごめんね、たくさん無理をさせて……。言い訳にならないけれど、うなじは約束どおり、死守したから」
歩み寄る逞しい久遠の肉体を、もう知っている。花婿の正装である漆黒の燕尾服に着替えた久遠にちゃんと向き直ろうとして、雫が再び身体を起こしかけた時、ぐるりと視界が回った。
「危ないっ、雫……!」
「え? あっ……!」
半回転してベッドの端から落ちたことに雫が気づく前に、久遠に上掛けごと抱きしめられる。
「大丈夫? 痛いところは?」
「な……ない」
「本当に?」
「ない。たぶん、大丈夫、だと思う……」
動揺に心拍数が上がり、着衣越しの久遠の体温に身体の深部がわずかに疼く。摂取した発情促進剤がまだ完全に代謝し切れていないのかもしれない。
「病み上がりみたいなものだから、無茶しないで。それと、きみとも少し、話をしておきたい」
久遠は雫を上掛けごとベッドサイドに座らせると、隣りに腰掛けた。
「あの……」
どう、したらいいのだろう。
どう、謝罪すべきだろうか。
思い出せる部分の記憶が鮮明になるにつれ、久遠だけでなく七月までもを巻き込んでしまったことを再確認した。伸びてきた久遠の腕にそっと肩を抱かれ、雫は震える。
「ごめん、久遠……おれ、きみを裏切った」
約束だった。初夜までは最後までしないでおこうと。久遠がどれだけ心を砕いて守ってきてくれていたか知りながら、雫は七月を優先した。傷つけてしまっただろう。身体の傷なら、癒えるまで待てる。でも、雫が付けたのは、治癒の見込みさえわからない、心の傷だ。
「確かに……僕は裏切られたのかもしれない。解釈次第では」
雫の隣りで、久遠は沈んだ声で切り出した。制御できない怒りの匂いが、空気にわずかに混じっている。
「あの状況で発情促進剤を服用するだなんて、そんな解決方法、誰も考えなかったよ。それしか方法がないとわかっていても、普通は思い切れないものだ。七月を助けるためとはいえ、僕の前で。確かに傷ついた。当然じゃないか。生まれてからずっと一緒に育ってきたアルファだというだけでも、七月と比べたら僕の方が不利なのに、あんな献身を見せつけられたら……頷くしかないだろ?」
「ごめん、なさい……」
神妙に詫びる雫の肩を撫でていた手がうなじに移り、処女地を確かめるように撫でられる。この場が穢されていないことが、対外的に、雫が無垢である何よりの証となりうる。
「まったく、上手くいったから良かったものの、救急搬送されでもしたら、式も披露宴も台無しだ。後先を考えてくれ。とはいえ、きみのウルトラCに付き合わせれることは、遅かれ早かれ、あの場で決まっていたけれど」
深刻だった久遠の声が穏やかになり、最後には弾む声で甘く雫に響く。
だが、雫のうなじをなぞる指が、ずっと震えていた。怖かったのは、雫だけではないのだろう。久遠にも、七月にも、どうしようもない恐怖を味わわせてしまった。罪を背負うのは当然だが、何をしても贖罪には届かないかもしれない。久遠が呆れるのも自明のことだった。
「おれのこと、嫌いになった……?」
「そんな話はしていないよ」
強い口調で否定され、雫はうなだれた。
「どう、償ったらいいのか……おれにはわからない、けれど……」
腿の上で両手を組み、久遠の体温を感じながら、雫は煩悶した。命じられれば、どんな償いでもする。久遠が望むどんなことも厭わない気持ちは本物だが、果たしてそれを望まれるほど執着されているのかも、覚束なかった。そんな雫に、久遠は呆れた声を出した。
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