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第32話 ことのあとさき(2/4)
「僕の気持ちから、逃げるつもり? 違うだろ。それに……きみの行動には確かに驚いたけれど、あの場で他の方法が、なかったのも事実だ。それを知りながら、誰も思い切ることができなかったことも。だから、余計に腹立たしい。きみを守るつもりが、いつも先を越される。でも、七月を切り捨てて僕と幸せになりたい、だなんて言い出さないきみの方が僕は好きだし、本音を言うと、少し嬉しかった。あの土壇場で、僕に甘えてくれたことが」
久遠は軽くため息をつくと、頭を雫の方へ傾け、ふわりと自分の髪を雫の髪に触れさせた。
「久遠……?」
かすかに雫が顔を上げると、久遠はそのまま続ける。
「僕が腹を立てているのは、自分に対してだ。何もできなかった。後手に回ることしか。とてもきみまで、届かなかった。それが悔しいんだ。……きみが、好きだから」
言い切ると、久遠は少し照れた顔で、雫の双眸を覗き込んだ。眸に影と光が宿り、雫をまっすぐ見つめる。親愛の込められた美しい闇色だ。
「率直に言うと、きみは素晴らしかった。無理をさせてしまって、きみが落ちるまで止まれなかっただなんて、伴侶として失格だ」
悔しげに頬を染め、自分自身に駄目出しをする久遠へ、雫は主張する。
「そんなこと……っ。その、あの、き、記憶は所々飛んでるけれどっ……よ、良かっ……たから、っ。お、おれの方こそ、きみを巻き込んで、勝手に先走って、迷惑を……っ」
真正面から久遠と向き合うことになり、恥ずかしさから再び俯こうとした雫の唇を、久遠の人差し指がそっと押しとどめた。
「迷惑だなんて思っていない。そんな風に考えないで。きみは被害者だ。泰衡さんにも困ったものだが、まさかここまでするとは……。でも、きみへの気持ちが確認できたから、悪くはなかった、と考えることにするよ」
雫の前で、久遠はいつしか、どこか吹っ切れた表情をしていた。
「どこまできみが覚えているか、わからないけれど……最初に七月を誘ったのは僕なんだ。ひとりでは、ちゃんと止まれる自信がなくて、七月と相互監視の上できみを抱く提案をした。だからもし、きみのおこないや、この事実が責められるものだとしたら、僕も同罪だ。もちろん、合意した七月にも責任がある。これは、三人で決めたことだから。だろ……?」
卑猥な声を枯れるまで上げ続け、よりによって久遠と七月に性欲処理をさせてしまうに近い行為を強要した。その事実に戦慄する雫に、久遠は仕組んだ悪戯が効いた時のような顔で、肩を竦める。眸が淡く輝いて見えるのは、雫のフェロモンの影響だろうか。
「僕の気持ちは、今も変わらないよ。きみのものになりたい。きみは……? 雫」
「今も、おれを欲しいと思ってくれるなら……。でも、無理、してないか? まだ、おれを好きでいてくれるか……?」
問いかけると、久遠は言い切る。
「僕がきみのものであるように、雫は僕のものだ。そして、七月のものでもある……と、思っても、いい……?」
七月の名前に意表を突かれて雫が目を瞠ると、久遠は切なげに笑った。異父兄と身体を重ねてしまった雫を、久遠は苦々しく思っているのじゃなかろうか。久遠が心から望み、命じるならば、雫に異存はない。だが、雫の行為が元でやむを得ず承諾させるぐらいならば――そこまで考えて、雫は違和感に気づいた。
(そうじゃない……。久遠がどうとかじゃない。これは、おれの問題だ)
七月との間に既成事実ができてしまったことに、雫は明らかに恍惚としていた。思えば朝から少しずつ、体調に変化があった。最初は緊張からくる不調だと高を括っていたが、これは種類の違うものだと、今、確信する。久遠を愛する気持ちが本物なように、雫にとって、揺るぎなく信頼のおける安らぐ場所。その場所に、七月の存在を求める気持ちに、ずっと蓋をしてきた。交歓を機に、開いてしまった蓋を、再び閉じさせることは、もうできない。
雫の表情の変化を、久遠は朽葉色の髪を梳きながら、優しく許容する。
「七月の気持ちは、七月に聞くといい。でも、きみの大事な異父兄を、僕はおざなりに扱いたくない。それは、心にとめておいてくれ」
その時、先を続けようとした久遠を遮るように、扉を小さく叩く音がした。
「久遠さま、そろそろ……」
「わかった。七月もおいで。今、きみの話をしていたところだから」
扉が半分ほど開かれ、七月が静かに寝室に現れる。長身の七月も正装を済ませており、歩み寄ると、雫の足元に片膝を付いて頭を垂れた。
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